昨日は学生たち何人かと兵庫県立美術館の「解剖と変容:プルニー&ゼマーンコヴァー チェコ、アール・ブリュットの巨匠」展を見学した。なかなか見応えのある展覧会であり、1時間半に及ぶ映画の上映も含まれているので、関心のある方は時間に余裕をもって行かれるとよい。今年は、私の教える美学美術史学専修ではじめて「アウトサイダー・アート」を卒論で取りあげた学生がおり、こうした分野への関心は美学美術史学においても今後高まってゆくだろうと思われる。
「アール・ブリュット」「アウトサイダー・アート」という言い方はそれぞれ、フランス語圏と英語圏における美術界の風土を反映した小うるさい区別があるのだが、ここではそんな議論には深入りしたくない。ようするに「美術」という世界の外で行われる表現活動に注目しそれを「美術」に入れる——というよりも、この運動の提唱者たちに言わせれば、そうした美術の外部で行われる表現活動こそ、金と名声で堕落した既存の美術とは異なる真の芸術であることを知らしめる——ということである。
この展覧会においても強く表明されていたこうした「熱い」メッセージに少し辟易してしまい、家に帰ってから次のようなことをツイッターに書いてしまった。
アール・ブリュットであれアウトサイダー・アートであれ、それらは伝統的権威や市場的価値から自由な人間本来の純粋な表現活動であるといった言い方が、いかに制度的なアートの中核的なイデオロギーであるかを、今さらながら確認できた。
アール・ブリュットはミニマリズムやポップアートと同じように、現代美術の立派な一分野である。それ以上でもそれ以下でもない。一方「芸術」の外部にある活動を本気で私たちの文化の中に受け入れるなら、「美術」を含む近代的な生活様式とそれに伴う価値感を根本的・全面的に変更しなければならない。
これに対して何人かの方から反応をいただいたので、それらにひとつずつ答える代わりに、この文を書いておくことにする。
文明化されたものに対して自然あるいは「生の(brut)もの」、インサイダーに対してアウトサイダーを対置し、実は後者こそがより真正のものなのだ!と主張するのは、近代的意識の核心をなす思考パターンである。その意味ではアール・ブリュットもアウトサイダー・アートも少しも新しい芸術運動ではなく、ロマン主義以来あくことなく繰り返されてきた「美術」という言語ゲームの最新バージョンのひとつであるにすぎない。
そしてそれは本来、欧米的なゲームである。これに対して、たとえば日本では文明と自然はうやむやに融合しているから状況が違うとか、アウトサイダーといったってそもそもインサイダーが確立していないとか言うことによって(ポストモダンと言ったってそもそもモダンが不完全なんだから、等と言うのと同様の理屈で)、いろいろパラメータをいじって変奏を楽しむことはできるだろうが、そうしたって元は同じゲームであることに変わりはない。
けれども私は何も、すべてはゲームであり制度であって、その外などに言及したって無駄だ、と言いたいわけではない。外はもちろん実在する、というよりも、それはそもそも「外」などと名付けて神秘化すべきものではなく、私たちは端的にそれと連続して生きているのである。
制度の外に立つ表現活動とは、ようするに「成功」を目的としない表現活動のことである。そう言うと一見、アール・ブリュットの提唱者と同じことを言っているように聞こえるかもしれない。アンナ・ゼーマンコーヴァはたしかに、自分の絵によって有名になろうとかお金儲けをしようとか思っていなかったし、多くの人々に自分の世界を知ってほしいとすら思っていなかったという意味で、「成功」を目指してはいない(この点、ルボシュ・プルニーはちょっと怪しく、普通の現代アーティストのようにみえる)。
「成功」など眼中になく、やむにやまれぬ衝動によって表現する人々は、美術のアウトサイダーにもインサイダーにも少なからず存在する。問題は、表現活動そのものにではなく、そうした活動を最終的にどこに回収するのかという点にある。アーティストの問題ではなく、言説とマネージメントの問題なのだ。展覧会の入場者数、マスメディアや批評家による言及、公的資金の獲得等々、私たちは「成功」という観念によって、徹底的に洗脳されている。美術の外における表現活動に注目するということは、それを美術の中に首尾よく組み込んで何らかの「成功」へと導くことではなく、反対に、自分自身もまたそうした活動に共感し同化するということなのである。
つまりヘンリー・ダーガーであれ山下清であれ、そうした人々に関心を持つということは、彼らもまた立派なアーティストなのだと理解しその認識を人にも広めるといったことではない。そうではなくて、自分も彼らのように生きたいと望むこと、自分の行っている仕事もまた、彼らの活動と同じようなものとして考えてみるということなのである。なぜならそう考えた方が誰でも活き活きと仕事ができるし、「成功」というのは結果としてたまに付いてきたりこなかったりするオマケのようなものに過ぎない、ということが分かるのだ。アウトサイダー・アート(私は名称には別にこだわらないが)に注目することの意味はそこにあり、そしてそこにしかないのである。