「数」とは、とりあえずひとつの現象である(「現象」というのは「今ここに、たまたまそのように現れている何か」という意味)。数には、何らかの実在が対応しているのかもしれない(「実在」とは「今ここにたまたま」ではなく、自力で必然的に存在するものという意味)。だがたとえそうだとしても、両者がどのように対応しているのか、私たちは誰も知らない。誰も知らないのに、私たちは数があたかもそのまま実在に対応しているかのように、日常ふるまっている。これはよく考えてみると、実に不可思議きわまりないことだ。近・現代人の共有する、ひとつの民族誌的奇習としか言いようのない行動である。
たとえば、このブログにはアクセス数解析のサービスがある。一日ごとに何人がこれを読んだか(より正確には、何人がこのページにアクセスしたか)が、過去1ヶ月のグラフで示されるのである。そして「あなたのページへのトラフィックをもっと増やすには」というアドバイスすらある。一人でも多くの人に読まれた方がいい、というのが大前提なのだ。ツイッターでも、フォロワーの数やリツイートされた数がリアルタイムで示され、その変化に一喜一憂している人もいるらしい。お金のやり取りのように、ある数(サイトへのアクセス数)が別な数(商品の売上げ数等)の指標となるような場合には、別に不思議はない。けれども数が、ある発話に意味があるか、それは重要であるか、それは真理であるか等々を判断する基準として考えられるとしたら、それはきわめて奇怪で呪術的な態度と言わなければならないだろう。
ぼくがいろんな所に書いているものを読んで「先生も早くひとつ新書とか出してくださいよ」などと言ってくれる人がいる。それはまだいい方で、「そんなにいろいろ意見があるのなら、テレビに出てしゃべってくださいよ」と言う人までいる。なぜですか?と聞くと「だって、その方が一人でも多くの人に届くでしょう」というのが答えである。当たり前じゃないか、そんな事を聞き返す方がおかしい、とでも言わんばかりの口調である。それどころか、こっちがせっかくあなたのことを評価して親切に言ってあげているのに、何をワケの分からないこと言ってるんだ、みたいな顔で言われるのである。
それで困って、ぼくは今書いているような媒体を手にとってくれる読者で十分だし、大学の講義で数人から数十人くらいの学生に向かって話すのが楽しくそれを大事にしているので、別にそれ以上の数の人に自分の声を届かせたいとは全然思わないんです、とお断りすると「そうですか、なるほど分かりました!」などと言われる。何が分かったのかというと、世の中にはへそ曲がりな学者もいて、大勢の人々が支持するもの、メジャーなものはそれだけですべてニセモノだと考えており、真理は限られた場所で密かに語られるべきものと信じている、先生もその類なんですね?(こんなにハッキリとは言われないけど)というような反応をされるのである。もう、どうにも答えようがない。なぜなら、ぼくにとってはそうした意味でのマイナー志向は、メジャー志向と何の変わりもないと思えるからである。
来週の火曜日、草間彌生の展覧会とアール・ブリュットの展覧会を学生たちと見学に行く予定をしている。草間彌生は今や日本の現代美術を代表する作家の一人であり世界的に知られている。有名であり話題になっているという理由から多くの人が彼女の作品を観に訪れるのは、もちろん悪いことであるとは思わない。けれども彼女に匹敵するようなエネルギーと強度をもって制作している人たちは他にもたくさんいるのである。たとえば『Diatxt.』8号でインタヴューした寺下春枝さんなどはその一人だ。けれども、彼女を現代美術の作家としてデビューさせようなどとは、まったく思いもしなかった。「アール・ブリュット」とか「アウトサイダー・アート」とかと呼ぶことすら考えもしなかった。
逆に、もしも草間彌生が有名でもなんでもなくて、彼女の出身地である松本市のどこかの病院か施設でひたすら膨大な作品を作り続けている変人のお婆ちゃんだったとしても、そのことを知ったら、たぶんぼくは学生を連れて観に行くだろう。 そして、そのとき草間彌生の作品を観る自分の眼は、今世界的に有名な美術家としての彼女の作品を観るときの眼と、本質的には変わらないと思う。ぼくは自分のことをたいした学者ではないと思っているが、このことにだけは自信がある。ほとんどその一点においてのみ、ぼくは自分のことを芸術学者だと言っていいと考えているのである。それは、美術とかアートなんてただの制度であってどうでもいい、などと言いたいわけでは決してない。
制度はなくてはならないし、それは現代では何らかの「数」に根拠づけられて成立している。それは当たり前のことだ。しかし実在する世界は、とりあえずそれとは独立に存在している。それも当たり前だ。なぜなら数とは、それだけではたんなる現象にすぎないからである。数と実在との間には何らかの関係があるのもしれないが、私たちは誰も、それがどのような関係であるのか知らない。知らないことを知らないと確認するのはとても大切なことだ。メジャーにしてあげようという人の誘いを断ったぼくは傲慢にみえたのかもしれないが、本当はたんに、そういう実に当たり前のことを言っているだけなのである。