いわゆる「タイムパラドックス」は長年SFの定番だったが、何時の頃からかこのテーマを真正面からシリアスに扱うようなお話は少なくなってきた。タイムパラドックスをめぐる物語が膨大に蓄積したために、新味を出すのが難しくなってきたということはあるだろう。また、私たちの住むこの現実は唯一無二の世界ではなく、宇宙には無数の世界が並行して存在しているという「パラレルワールド」的世界観の方が、インターネットとグローバリズムの環境にいる現代人にとっては、しっくり来るのかもしれない。
古典的なタイムパラドックスとは、時間旅行をして過去に行った人がその世界に何らかの痕跡を残すことで、その後の歴史が変わってしまうということである。介入した瞬間に歴史が二つに(つまり介入のない元の歴史と介入後の変更された歴史に)分岐すると考えれば、当面は矛盾を避けることはできる。しかし昔のSFの多くは唯一の歴史を前提していたので、タイムトラベラーによる介入をどのように修復して「正しい」歴史を回復するかということについて、いろいろな工夫を凝らしていた。
荒っぽいが一般的なのは「規則で禁止する」という方法である。タイムトラベラーは過去の歴史に変更をもらたしてはならない、とするのである。ちょうど、ハイキングをする人が山の中にゴミを捨てて帰ってはならないように。つまり過去をそっとしておくのは「マナー」の問題であり、自分が出したゴミは責任をもって持ち帰りなさい、ということだ。まあ、分かりやすいといえば分かりやすい。いわばここでは、「歴史」が「自然」とみなされているわけである。同時に「存在」の問題が「当為」の問題へとすり替えられている。そして時間旅行が一般化している未来世界では、心ない時間旅行者を取り締まるための「警察」(タイムパトロール)が設立されたりするのである。
だが良心的なタイムトラベラーでも、知らず知らずのうちに過去に影響を与えてしまうということもあるだろう。厳密に言えば、過去の人々が未来からの旅行者を一瞥したというだけでも、本来その時代にはいるはずのない人間を見ているわけだから、過去への立派な介入である。そうした影響をもキャンセルするために、たとえば筒井康隆原作の映画『時をかける少女』などでは、未来人が強力な念波を送って自分と関わった人々の記憶を消してまわるという、随分と面倒なことをしている。時間旅行もなかなか大変だ。
もちろんよく考えてみると、この解決方法には原理的におかしなところがある。「過去に介入することでその後の歴史が変わる」というのは、人間の知覚レベルの話ではなくて、物理的宇宙の問題であるはずだからである。極端にいえば、ある時点の宇宙に存在しなかった原子がただ一個余計に存在しても、それは別な宇宙になってしまうのである。でもそんなに厳密にしてしまったのではお話が作れないので、SFでは本来物理レベルの問題であるはずのパラドックスを、人間の知覚や心理のレベルで解釈する。つまり、たとえ過去を変えてしまったとしても「他の人に気づかれなければいい」ということである。このいい加減さがないと、そもそもタイムトラベルという物語は成立しない。
さて、パラドックスを生じさせてまで変えたい過去の出来事とはいったい何だろう? おそらくそのひとつは、現在の厄災をもたらした原因となる人物を抹殺して世界を救うこと(『ターミネーター』)であり、もうひとつは自分の人生をよりよいものにリセットすること(『ドラえもん』)ではないだろうか? 人生のリセット——実はこの概念自体のうちに、そもそもパラドックスがある。人生をリセットするとは「この人生」をキャンセルするということなのだが、人生をリセットしたいという願望は「この人生」の中からしか生じていないからである。
言い換えればそれは、「生まれて、すみません」という有名な(?)発話の持っている矛盾と同じである。(ちなみに、この言葉は太宰治の『二十世紀旗手』という短編のエピグラフなのだが、実は寺内寿太郎という詩人の作品を太宰が盗用したものであることが知られている。寺内は太宰のファンだったが、自分の作品が無断で使われているのを知るとショックを受けて不安定になり、結局は行方不明になってしまった。)
話が逸れてしまったが、危険人物を抹殺して地球を救うことと、自分自身の人生をキャンセルすることという二つのことを、タイムパラドックスというテーマによって結びつけた古典的なSFテレビドラマのことを思い出した。1960年代のアメリカで放映され、その後日本でも紹介された「アウター・リミッツ」というシリーズの中のエピソード「生まれてこなかった男("The Man Who Was Never Born," 1963)」である。(「ニコニコ動画」で日本語吹き替え版を、YouTubeでオリジナルを観ることができる。)
これはタイムトラベルやタイムパラドックスというテーマをめぐる根本的な問題をいろいろと考えさせる重要な物語だが、あまりに長くなったのでこの作品の分析は次の記事にまわそうと思う。