…ええと何だっけ? そうそう、時間を遡って変更したい過去の最たるものは、自分自身の人生に関わる重大事(究極的には自分が生まれる元になった出来事)ではないか、という話だった。その出来事がなければ、この人生はキャンセルできる(「独我論者」にとっては自分の認識することが世界のすべてだから、この世界そのものがキャンセルできる)ということである。
「人生のキャンセル」ということに、いちばん真剣にとらわれていたのは古代ギリシア人ではなかったのか、というのがニーチェの説だ(でも本当はニーチェは、もしかしたらインド人の方が想像を絶してすごいんじゃないだろうか、と思っていた)。とにかく、『悲劇の誕生』で彼が紹介するエピソードは次のようなものである。
ミダス王はディオニュソスの従者である賢者シレノスを長いあいだ森の中で追い回していたが、捕らえることはできなかった。しかし、シレノスがついに王の手におちいった時、王は、人間にとって最もよいこと、最もすぐれあことは何であるか、と問うた。……がとうとう王に強いられて、からからと笑いながら、次のような言葉を吐き出したのである。「みじめな一日だけの種族よ、偶然と労苦の子らよ。聞かないほうがおまえにとって一番ためになることを、どうしておまえはむりに私に言わせようとするのか? 一番よいことは、おまえには、とうていかなわぬこと。生まれなかったこと、存在しないこと、無であることだ。しかし、おまえにとって次善のことは──すぐ死ぬことだ。」
これを聞いてミダス王が言った言葉が、人類最初の「生まれて、すみません」だった…というのはウソである。それはともかく、ここでシレノスが「とうていかなわぬ」と嘯いたことを、ついには20世紀のSF物語が実現したというのは本当である。それが1960年代のアメリカのテレビドラマシリーズ「アウター・リミッツ」で1963年に放映されたエピソード「生まれてこなかった男("The Man Who Was Never Born")」だ。
時は1964年、青年が一人でロケットに乗って宇宙旅行をしている。そのロケットがたまたま時空の歪みを通過して、2164年という未来にタイムスリップしてしまう。地球は荒野と化しており、青年はミュータント化した人類の末裔と出会う。その未来人の語るところによれば、ある時一人の生物学者が宇宙から採取した微生物を培養してばらまいたために、人類は生殖機能を失って絶滅の危機に瀕しているというのである。そこで青年は彼を連れて過去に戻り、そのカタストロフが起こるのを阻止しようとするのだが、宇宙空間で時空の歪みを逆に通過するショックで青年は消えてしまい、ミュータント化した未来人アンドロだけが過去に戻る。
アンドロは催眠術のような能力によって自分の醜い顔隠す能力を持っていた(何で?(笑))が、最初はそれを使うのを忘れ、森の中で醜い姿のまま若い娘と遭遇し、その女は悲鳴を上げて逃げ去るという場面がある(まったく『フランケンシュタイン』である)さて、彼が戻った過去は、問題の生物学者を生むことになる父と母がちょうど出会う時であり、実は先ほどの娘がその未来の母であった。その他にもとうてい考えられないような不自然な設定は満載なのだが、ようするにこの娘が婚約者を振ってアンドロに惹かれるようになるのである(「前にどこかでお会いしましたわね」と彼女は言うのだ。それは最初森の中で、本当の姿の彼に遭遇したことを言っているのである)。
さてアンドロは(よりによって無策にも程があると思うのだが)彼女の婚約者に直接談判して、「あなたの息子は人類を滅ぼすことになるから、結婚するのはやめなさい」と説得するのである。婚約者はもちろん相手にしない。それでいろいろすったもんだがあるのだけれど、結局は、結婚式に乱入して女を連れ去るというクライマックスになる。そしてなぜか、女はアンドロについて行くのである(どこかで観たような話でしょう? 『卒業』はこの放映から4年後の1967年である)。
追っ手を振り切って森の中からロケットが飛び去り、女とアンドロは未来への旅路につく。アンドロの知っている未来は破局だが、その破局の原因はこの女が生むことになる息子にあるのだから、彼らは今や新たな未来、おそらくは明るい未来に向かって帰還することになるはずである。そして、くだんの時空の歪みを再び通過する時、アンドロは突然苦しみ始める。それもそのはず、未来を左右する過去の重大な出来事を変更してしまったために、新しい未来にはアンドロはそもそも存在していないのである。「私は、生まれて来なかったんだよ」と言いながらアンドロは消え去り、花嫁姿の女は宇宙の虚空の中で彼の名を呼びながら泣き続ける…。
これが「生まれて来なかった男」の荒筋である。とてもよく出来た話なので、分析といっても多言を要しないであろう。まず「生まれて来なかった男」とは誰か。それは生まれることを阻止された生物学者であると同時に、その原因となった未来人アンドロである。つまりタイムパラドックスとは、対象としての世界を変更しようとすれば、結局は自分自身の存在を変更することになる、ということなのである。またこの物語では、タイムパラドックスは出生の秘密と両親の出会いに関わっており、本質的に性的なものであることが露わになっている。また、醜い怪物に美女が惚れるというテーマにも注意する必要がある。
他にもいろいろと興味深い点をいくらでも指摘することはできるけど、時間がないのでこれでやめておく。この次は一度「タイムパラドックス」をテーマにした研究会をやってもいいだろう。