明日(2012年1月21日)、京都精華大学の特別公開講座で話をすることになっている。これは、かつてこの大学の学長もつとめた美術評論家の中原佑介(昨年3月逝去)さんを記念して開催されるシンポジウムのための報告で、広島市立大学の加治屋健司さん、上智大学の林道郎さんと鼎談する。司会は京都精華大学の佐藤守弘さん。
ぼくは中原佑介氏と面識はあったが、美術や批評の話をしたことは一度もない。京都の市バスや電車の中でたまたま会って会話したことが何度かあるだけである。これまで氏の書かれた美術批評も、お世辞にも熱心に読んできたとは言い難い。けれども昨年以来、現代企画室から発刊されている『中原佑介美術批評選集』(現在第1巻と第5巻が既刊)を通じて、あらためて美術批評というものについて考える機会があった。
中原さんが批評活動を開始した1950年代後半というのは、ちょうどぼくが生まれた頃である。 今とは半世紀の隔たりがある。この半世紀は、文化的・思想的にいったいどういう意味があったのだろうか、と考える。何か「進歩」したのだろうか? 「進歩」という考え方に対してはぼくは昔から懐疑的であり、現在はとりわけ、高度経済成長から昨年の東北大震災まで、この国は長い夢を視てきたのではないかという思いが拭えない。そしてこの時期は自分のこれまでの人生そのものと重なっているのである。
明日のシンポジウムは「批評の技法」というタイトルだが、ぼくは「技法」ではなく「批評の原理、あるいは批評における基礎的なもの」という話をしたい。批評を「クリティーク=批判」というその原点から考えたいのである。というのも現在「批評」と呼ばれているものは、①作品を宣伝あるいは査定するテキストであるか、②学術的あるいはサブカルチャー的に閉じた記述を与えるものか、あるいは①と②が適当に配合されたものだからだ。こうした状況は、世界を「専門的技術者とユーザー」というモデルで捉えるグローバル資本主義の帰結のひとつである。
批評をその原点において理解するためには、そうしたモデルとは別なモデルを構築しなければならない。中原佑介は「今日の絵画に要求されているのは、新しい人間像の確立である」と書いていた(「現代の神話—抽象絵画について—」『中原佑介美術批評選集』第1巻)。ぼくはこの「新しい人間像」を現代の状況において規定したいと思う。それは、宇宙の中で特権的な地位を占める古いヒューマニズムの人間観とも、現代的な「専門家」「技術者」、あるいは「ユーザー」「消費者」とも異なったモデルである。
そうしたモデルは、巨大テクノロジーの破綻によって生(なま)の宇宙に曝された人間の弱さに基づく、新しいヒューマニズムによってはじめて可能になるものだと思っている。たかが美術批評からどうしてそんな大げさな話になるのだと思う人もいるかもしれないが、ぼくは批評とは特定の文化ジャンルの記述や分析を行う専門的作業ではなく、具体的な作品をきっかけにして、この世界と生の成り立ちそのものに注意を喚起する活動だと理解している。一見どんなに具体的で細かな作品記述をしているようにみえても、最終的にはそうした哲学的覚醒に結びつくことがなければ、批評なんて何ものでもない。
そういう意味で、批評の原理、あるいは批評における基礎的なものについて思考することが重要だと考えている。とはいえ、ただ「原理」だとか「基礎的」とか繰り返していても、それだけでは漠然としてつかみどころがない。ロマン主義や宗教へと退行する危険もある。だから重要なのは、現代において支配的な技術的思考に対抗しうる力を持つような原理的思考としての批評を、絶えず開発し続けること(いわばハイデガーとアドルノを不断にバージョンアップすること)であろう。それが、現代における「美学」の実質的課題であると言っても過言ではない。