自分は、愛国者だと思う。
正直若い頃は、「愛国」という言葉に強い抵抗感を抱いていた。それは世代的なものもあって、子供の頃から「愛国=過去」「愛国=右翼」といった連想を、強く植え付けられていたからである。日本がいかに救いがたく遅れているか、「国際社会に出たら笑いもんだぞ、君たち知らないのか?」みたいなことを言えるのが、知的で進歩的なスタンスだと信じていた。でもよく考えてみたら、「オイラの国はとても遅れた恥ずかしい田舎で、世間(国際社会)ではとても通用しない」なんて思うのは、実はとてもとても強い「愛国心」の裏返しにほかならない。優れていようが劣っていようが、自分の国を「特別」と信じて疑わない点においては、まったく同じだからだ。
誰もが、どこかの国に生まれる。それは自分では選ぶことができない。気がついてみたら「○○国人」だったわけである。それは、どんな家に誰の子として生まれるかということと、基本的には同じである。ぼくたちが親を愛する(あるいは憎む、それらは同じコインの両面である)のは、その親の子として生まれ育てられたことが、もはや取り返しがつかない出来事だからである。取り返しがつかないというのは、自分の存在それ自体がこの偶発的出来事に全面的に依存しているという意味である。ようするに、「宿命」ということである。生まれた国についても同じことだ。
だから、自分は愛国者だといったけど、本当は愛国者でない人なんて原理的にありえないのである。違いは、自分が特定の国に生まれてしまったという宿命に対して、どんな態度をとるかということ、それだけなのだ。「日本はどうしようもない国だ、世界の辺境だ、ナイーヴ過ぎる、恥ずかしい、悪い場所だ」など母国を口汚く蔑むことと、「いや日本こそ素晴らしい、誇りを持つべきだ、クールジャパンだ、品格を取り戻せ」等々と叫ぶことは、(両者とも母国のユニークネスを素朴に信じている点において)まったく同じなのである。それらもたしかに愛国心の表れなのだが、とても「力(りき)んだ」愛国心だ。
力んだ愛国心の特徴は、たとえば「日の丸」「君が代」に異常な思い入れを持つことにも現れる。いうまでもなく「日の丸」や「君が代」の表象は歴史的産物である(しかもそんなに古いものではない)。だが現在、国民的に合意できる国旗や国歌の代案がない以上、それらを掲げてゆくことは妥当だろう。一方、それらがこの国の近代史の中では一国のシンボル以上の意味を付与され、そのことに今もこだわりを感じる人々がいるのもまた事実である。それはやがて忘れられるかもしれない。だがそれを待てずに国旗や国歌への忠誠のジェスチュアを強制するのは、どう考えても力みすぎた愛国心である。
あるいはまた、たとえ現代美術のような分野であれ、日本の島国性、閉鎖性を極度に強調して、「お前らいつまでそんなぬるま湯の中でヌクヌクと生きてるんだ、世界はそんな甘いもんじゃないぞ、目を覚ませ!」と叫ぶこと、若者たちを鼓舞して「世界のトップを取る」ことへと啓蒙するような態度もそうである。これは実は少しも新しいもの言いではなく、幕末以来飽くことなく繰り返されてきた「開国論」のディスコースだ。ようするに「龍馬伝」なのである(といっても、坂本龍馬自身の思想はそんなに力んだ愛国思想ではなかった)。景気付けとしてはたしかに有効なのだが、それ以上のものではない。
力んだ愛国心を、ぼくは決して信用しない。なぜなら、それは自己欺瞞だからである。その態度はちょうど、自分の親に対して強すぎる愛着(あるいは強すぎる憎悪)を持つ人がそうであるように、その親もまた他の人々と同じひとりの人間であるという事実から、かたくなに目を背けているからである。たしかに、自分がある国に生まれたという宿命を変えることはできない。だがそこへの宿命的な帰属感を認識しつつも、母国もまた他の国と同じような長所も短所も併せ持つ国であると認めるのが、力まない健全な愛国心の基礎だとぼくは考える。
これまではいわば、両極端の「力んだ」愛国心(「日本は恥ずかしいド田舎」VS.「日本は実は世界一」)同士が、まるで紅白歌合戦のように延々と勝ち負けを繰り返してきたわけだ。懐かしい風景ではある。でも、もうそろそろいいでしょう。この国の未来は、「力まない」愛国心(それは潜在的には、すでに多くの人々に共有されているのではないかと思う)が、正当に表現され、代表され、共有されるかどうかにかかっているのである。