愛知県美術館の「これからの写真」展に展示されている鷹野隆大さんの写真作品が匿名の通報によって訪れた警察によって「わいせつ」と判断されたことに対して、反対する署名を求められた。
署名といってもネット上の署名である。正直、ネットでの署名なんてどっちでもいいと思ってるけど、絶対しないと決めてるわけでもない。その時の気分でしたければするし、親しい人から回ってくるとついしてしまう。優柔不断だが、まあその程度のものだと思う。署名したことなんてすぐ忘れてしまうし、そのことで自分が何か社会的な意思表明を行ったなどとはあまり思えない。
この程度のものを取り締まるなんて、いくら何でもやり過ぎだと思ったから署名はした。でも、ちょっと気になることもあった。それは「権力が芸術に介入する」みたいな言い方である。こうした問題において、「芸術」を何か特権的なものであるかのように扱うと、話がややこしくなると思うからである。
警察権力は社会に必要である。近所で刃物を持って暴れている男がいたら誰でも警察を呼ぶ。それも一種のパフォーマンスかもしれないからその人の「表現の自由」を尊重しよう、などとは誰も言わない。でもその暴漢を逮捕する権力と、わいせつ物の陳列を取り締まる権力とは、まったく同じ「権力」なのである。
警察は芸術性の判断には踏み込まない。それは当たり前である。だから警察に対して「これは優れた芸術作品であり、わいせつ物ではない」といくら主張しても、相手は困るだけである。仮に担当の警察官が芸術に理解があり、作品としての重要性を認めていたとしたら、よけいに困るだろう。ただ、警察の判断は法に従っているとは言っても、その運用には幅があることも確かである。
わいせつ性の判断基準は時代によって変わる。昔はあんなに大騒ぎになった『チャタレイ夫人の恋人』も、いまでは別にどうってことない。この変化は、作品の芸術性とは関係がない。だから、その問題の写真作品に男性器が写っていても、いまの時代、美術館の中で注意書きもあるならこれくらい大丈夫、と多くの人が思っていることを明らかにする必要がある。抗議というより、そのために署名した。
逆に言うと、これくらいのものを有害だと匿名で警察に通報するような人の意見は、現代の一般的常識をまったく代表していないから無視してよいということである。社会に実質上悪い影響を及ぼさないものは、暴力ではなくて表現である。表現はその芸術的価値とは関わりなく、その自由は護られなければならない。それだけのことだと思う。