1966年以来フランスに半世紀近くも住んでいる井上佑吉さんという彫刻家がいる。その沖縄の石を用いた作品について、大久保美紀さんが紹介してくれている文章を読んで、しばらく石のことについてずっと考えていた。
石には昔から惹かれるのである。孫悟空は石から生まれた。石の中に生命が胚胎されているという空想。つげ義春の作品に出てくる、石を売る無為の男というのも好きだし、『おじゃる丸』に出てくる「カジュマ」も石を集めていたし、そういえば「石に話すことを教える」というエッセイがあったな、とそれからこれへと思い出されてきた。たしかIAMASの課題授業でこの詩人の話をしたことがあると思ったら、その頃書いた自分の文章が古いWebサイトに残っていた。
以下のテキストは、昔京都国立近代美術館のニューズレター『視る』に書いた文章の一部で、アメリカの詩人アニー・ディラード(Annie Dillard)のエッセイ集Teaching a Stone to Talk (1983, Harper and Row)(邦訳は、『石に話すことを教える』内田美恵訳、めるくまーる社、一九九三年)の一部である。たしか飛行機の中で書いた。どうして自分がこんなに石に惹かれるか、ヒントがあるような気がしてここに再録する。
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…ディラードは放浪の人である。第二次世界大戦の終わる年にピッツバーグで生まれた彼女は、やがて都会を遠く離れた辺境の地に移り住むようになった。この作品では彼女はなんと、ガラパゴス諸島に属するひとつの島に住んでいる。その島に、三十がらみの男がひとり、板葺きの小屋で暮らしている。男は、手のひら大の浜石に革のカバーを掛け、毎日数回、そのカバーを取り除けては、「石に話すことを教え」ているのだ。これは「崇高な仕事」だ、とディラードは言う。
文明の喧騒を嫌って、大自然のなかで孤独に思索することを選んだ人間嫌い(ミザントロープ)の詩人。そんなふうに言ってしまうのは簡単だ。けれどもディラードのエッセイには、自然の「素朴さ」や「暖かさ」といった印象はみじんも感じられない。ましてや、辺境で暮らすことの「厳しさ」が、これ見よがしに示されることもない。都会の冷たい人工世界に対して、辺境では自然が豊かに語りかけてくる、などという甘い幻想は、そこにはないのだ。それどころか反対に、辺境においてこそ、世界は深く沈黙しているようだ。というより、辺境においてわたしたちは世界の「沈黙」を、よりクリアに経験することができるのである。
石に話すことを教える——それはいってみれば、沈黙する宇宙に何かを言わせようとする、不断の「儀式」である。それは一見、チンパンジーに英語をしゃべらせようとする科学的研究の戯画のようにみえるかもしれない。けれどもさらに考えてみると、文明とは結局そうしたこと、つまり「石に話すことを教える」ことなのではないか?とも思えるのである。人間がこれまでやってきたこととは、何も意味していない宇宙の中に秩序や法則を見出すこと、宇宙を人間化し、世界を人工的なイメージや言語によって満たしてゆくことにほかならないのではないか?
神がもはや人間に語りかけなくなった世界は、ただ沈黙するばかりである。ディラードによると、沈黙とは音の欠如ではない。それどころか世界はたえずいろいろな言葉を発している。そしてその言葉がみんなひとつになって、「ブーンという唸りとして」響く。その「唸り」こそが沈黙だという。沈黙とは静寂ではなく、いわばホワイト・ノイズなのである。もしそうだとすれば、そこには「自然」と「文明」との相違など存在しないように思える。ガラパゴスの夜の森で聞かれた世界の「唸り」は、今ぼくがこれを書きつつある、高度一万メートルを飛行している機械の「唸り」と連続しているのではないか? それらに通底する世界の沈黙——それはけっして心休まるものなどではなく、何かしら不気味なもの、恐るべきもの、吐き気を催させるものだ。この沈黙から逃走するために、人間はそれを言葉やイメージへと変換してきたのではないか・・・
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