前期の大学院講義の導入で、スラヴォイ・ジジェクの『ラカンはこう読め!』という本を紹介している。もともとはHow to read Lacan (Granta Publications, 2006)というタイトルで、思想入門書のひとつとして刊行されたものだ。こういう本はたいていつまらないのだが、鈴木晶さんの翻訳によるこのジジェクのラカン入門書だけがとても優れて面白いので取りあげた。
この本には、日本語版だけに寄せられた序文があり、その中でジジェクは、黒沢明の映画『羅生門』に言及している。え? 日本語版への序文だからといってクロサワの話? もう、典型的じゃない? といぶかる向きもあるだろう。でもジジェクはおそらく、わざとその話をしている。
ご存じのように映画『羅生門』は、芥川龍之介の『羅生門』に、『藪の中』という別な小説の内容を加えて作られたものだ。全体のシチュエーションはたしかに羅生門で雨の止むのを待っている男たちの話なのだが、その話の内容は、ある暴力的な出来事についての、4人の異なった物語によって構成される。
その出来事とはつまり、セックスと死である。妻を伴って旅をしているサムライが盗賊と出会い、結果としてその妻はレイプされ、侍は死ぬ。なぜそんなことになったのかについて、4人が異なる話をする。まず盗賊の話では、自分はサムライの妻をレイプした後、決闘によってサムライを殺す。次に妻の話では、自分は夫の前で盗賊のセックスに魅了され、その恥を見られた以上どちらかに死んでもらわねばならないと決闘を要請し、サムライが負けて死ぬ。さらに死んだサムライ(の亡霊)は、自分は恥辱のあまり自害したのだと主張する。そして最後に一部始終を目撃していた木樵の話では、盗賊にレイプされた妻を、夫が恥知らずの売女めと罵ると、妻は逆ギレしてあんたらは二人とも弱虫だ、そうでないなら決闘してみろと挑発するのである。
最後の木樵だけが事件そのものに利害のない第三者であるがゆえに、彼の証言が真実であると考える人もいるかもしれないが、ジジェクはこの4つの物語のどれが真実かということは重要ではないという。重要なことはこれらが唯一の到達しがいたい真実をめぐる互いに矛盾する複数の主観的解釈ではなく、むしろ4つの神話的バージョンであり、それらが語られる順序にこそ意味があるということだ。新たな話が語られるごとに、男(サムライ、盗賊)の代表する秩序の原理が弱まってゆき、それが女(妻)の欲望に変化してゆく。最後の目撃談が真実らしくみえるのは、それが利害のない第三者(木樵)によって語られたからではなく、それが他のすべての話を結びつけるトラウマ的なポイントとして働くからである、というのだ。
この実例は、その上に今起こっていることを重ね合わせるとさらによく理解できるのではないか、という話をした。つまり、STAP細胞をめぐる「偽装」ということにまつわる一連の流れである。これが「偽装」という文脈で多くの人々の注目を集める前提として、佐村河内守の事件があった。音楽作品が他人の作ったものであるという点で、また「現代のベートーベン」という触れ込みも「偽装」だったということである。しかしこれが多くの人の注目を浴びるようになった背景には、レストランでの「鶏肉」をはじめ、様々な「偽装」事件がある。3年前の京大入試でケータイを使ったカンニング事件というのも、この系列に含められるかもしれない。
「偽装」という物語は入試、鶏肉、音楽作品をめぐる様々なバージョンを経過した後、現在「万能細胞」をめぐる最終的な形をとっている、とみることができるのではないか? そして徴候的なことに、またしてもこの最後のバージョンにおいては、男の代表する秩序(科学の正統性、等々)が女の欲望によって脅かされ、しかもその係争点とはまさに、女だけがその胎内に宿すことのできる胎児性、万能性に関わるテーマなのである。
蘭はスズメバチを「偽装」しているのだろうか?「偽装」(が「悪」であるということ)は、象徴的秩序においてのみ意味をもつ概念である。生命活動それ自体においては、偽装(擬態)とは、まったく普通の戦略であって、むしろ生命活動そのものの原理的な作動の一部なのである。そうしたことをふまえてあえて挑発的に言うならば、細胞に何らかの刺激を与えてそれが何にでも変化できるようにさせるということは、細胞に万能性を偽装させることである。そうした可能性に到達したとすれば、それは驚くべき科学的達成であると同時に、それに関わる「偽装」が問題化されることは、きわめて徴候的でトラウマティックな出来事でもあるのである。