屋上の思想
昔聞いたRCサクセションの有名な曲のひとつに、「トランジスタラジオ」というのがあります。この歌は、ぼくの想像で再現すると、だいたいこんな状況を歌ったものです。70年代半ばの、ロックファンの高校生の男の子がひとり、授業を抜け出して屋上の「日の当たる場所」で寝ころんでいる。かれはそこでタバコを吸い、「内ポケットにいつも」忍ばせているトランジスタラジオを聴くのです。そうしながら「彼女」が教室でおとなしく勉強している姿を思いうかべる。ラジオは「きみの知らないメロディ、聴いたことのないヒット曲」を運んでくる。
さてこの情景では、まず何よりも「屋上」という場所の魅力が圧倒的です。いったい「屋上」って何だったんだろうか。「屋上」は、ラジオ体操やバレーボールをしたり、秘密のデートや取り引きをしたりするだけの場所ではなかった。また失恋を癒したり、友達を慰めたり、喧嘩をしたり、犯人を追いつめたり、飛びおり自殺を企てたりするためだけにあるのでもなかった。いや、むしろそうしたことすべてを可能にするような空間の独特な質が、そこにはあったのです。
「屋上」とはひとつの「空き地」です。そしてこの「空き地」は、地表が宇宙に向けて突出した岬のような場所です。それはいわば、天空に半ば突き刺さった大地であり、そこでは〈風〉と〈土〉という二つの異質なエレメントが解け合っている──「屋上」とはそうした境界領域です。トランジスタ・ラジオはそこで、何にも阻まれることなく「ベイエリアから、リバプールから」ヒット曲をキャッチしてくる。授業を抜け出してこの「屋上」という空間に入る少年は、大気圏に広がるラジオ電波のネットワークに触れることになるわけです。
これを現代に置き換えて考えてみると、どうでしょう。トランジスタラジオはパソコン、ラジオ放送網はインターネットということになるでしょう。もちろん、ラジオがコンピュータになることによって、もはや後戻りできない決定的な変化が生まれました。それは、情報の双方向性(インタラクティヴィティ)です。そのことによって、本当の意味でのネットワーク、つまりどこにも中心のないウェッブが生まれました。世界は、どこもかしこも「つながれた(ワイヤード)」情報空間となった。では、あの「屋上」はどこに行ったのでしょうか?
それは、いまやどこにでもあるのです。パソコンとインターネットによって作り上げられたコミュニケーション空間においては、自宅の机の前も、オフィスも、通信端末をもって歩く街も、いわばあらゆる場所が「屋上」のような境界性をもちます。「屋上」は遍在する。どんな場所も宇宙へと突き出した突堤となり、そこでは〈風〉─たえざる運動・軽さのエレメント─と〈土〉─重く停滞する実体性─とが溶け合っている。あらゆる空間がそうした二重性をもつようになった……これは、すごいことです。人間をとりまく「意味の宇宙」の、根本的な構造が変化したのです。
電脳ネットワーク化は、人類の文明史上の一大転換(というよりも、そもそもぼくたちが「文明」と呼んできたこの数千年の伝統そのものの転換)をもたらすことは確実です。これまでのような社会も、経済も、国家も、教育もこれからどんどん解体してゆくことでしょう。マスコミはそれを、まるで戦争のようにけたたましい鳴り物入りで、誇大なレトリックで騒ぎ立てています。たしかに大きな変化のときが来ているのはそのとおりなのですけどね……
でも、本当に重要な変化は、静かな足どりでやってくる、ということもある。サイバースペースがすべての場所をリンクさせる状況を考えるとき、それを「あらゆる場所が屋上になった」こととして考えてみることも必要なのです。「屋上」は「境界領域」ですが、同時にどこか、ポカンと抜けたような空間でもあるわけです。この「ポカンと抜けたような」という部分が、とても大事なんだ。うまく言えないけどね。そういえばキヨシロウも「あーあ、こんな気持ち、あーあ、うまく言えたことがない……」と歌っていた。電脳空間にひそむ、この可能性に気づくことができなければ、本当の21世紀はやってこないと思う。