これは前回の「美学は人工知能をどう語るのか」の続きというか、本当はこちらの方が書きたかったのだけれど、昨晩は時間がなくて展開できなかった。前回の記事だけだと一学会に関する事柄のように読まれるかもしれないが、そんなことでは全くなく、学会や人文系の研究環境に限られた問題ですらなく、議論したいのは私たちが今生きている社会全体に関わる問いである。それはまた、もっと前の記事で取り上げた「人間が(性能の低い)人工知能として振る舞う」というトピックにも関わっており、美学会で発表を予定している内容の根幹となるものでもある。
学会発表とか論文の内容を公開のブログで記事を書きながら考えてゆくなんて、若い人たちはしない方がいいと思うが、ぼくはもう業績とか評価とか関係ないので、まったく構わない。自分の思考自体がパブリック・ドメインだと思っているのである。この意識は新しいようで古いものであり、近代の制度化された学問が広がる以前の思想家たちは、これに近い考え方であったと想像する。
けれども近代以前との決定的な違いは、ネットがあることである。ネットに自分の思考を書き記すということは、それが誰かに盗まれるかもしれないことを潜在的に意味している。少し前までは、それは他の人間に盗まれるかもしれない危険を意味していた。1990年代末、当時勤めていた大学の講義で学生が提出してきたレポートに、ぼくがネットに書いた作文がそのまま使われていた。最初はケンカを売られているのかと思ってその学生を呼び出したら、彼はそれがぼく自身の書いたテキストであることを知らず、ネットで探したら講義内容と似た文章を見つけたのでコピペしました、と白状した。
今から思うと、これはまだ可愛い部類の笑い話に属する出来事である。2023年の今、ネットに何かを書くということは、人に盗まれる危険を冒すことではない。人間よりも桁違いに情報収集力の高い人工知能に常に見られているということである。SNSのコメントであれブログの日記であれオンラインの論文であれ、とにかく何かを書くということは、意識するしないに関わらず、いわば人工知能に絶え間なくエサを与えて育てている、ということを意味している。人工知能は人間が吐き出した膨大な思考の断片を食べ、それを組み合わせて成長する。人工知能が人間を凌駕することを脅威と考える人がいるが、それは全く的外れであって、人工知能の脅威というのは、それが意識も感情も創造性も持たないゾンビであるのに、人間のそれと区別がつかない生成物を、無尽蔵に生成するという点にある。
さて、問題はなぜ「人間の仕事と区別がつかない」かということだ。それは、何であれ私たちがある仕事の質を、あらかじめ存在する基準を満たしているかどうかで判断するからである。言い換えれば「適切かどうか」という判断である。「政治的適切さ(ポリティカル・コレクトネス)」などはその典型だが、政治的でなくても「適切さ(コレクトネス)」はそれ自体が政治的な力を持っている。たとえば人事評価を数値化された「適切さ」の指標で実行すると、仕事上の失敗が少なく将来も失敗しなさそうな人が高得点を取る。その結果、単にエラーが少ないだけの人工知能的人格によって管理職や指導的ポジションが占められる結果となり、組織の全体としての生産性は低下してゆく。
審査も同様である。審査という制度自体は必要なものであるが、そこに過度の公正さや客観性を持ち込むと、それは人間(審査員)の人工知能化をもたらすことになる。個々人の能力の問題ではない。予め存在する基準に照らして適切性を評価せよと言われれば、真面目で責任感の強い人ほど、自分を抑えてみずから人工知能に変身して仕事せざるをえない。そうしないと、判断結果への「説明」を求められた時に対処できないからである。
「適切性」はもちろん「適切」なんだからそれ自体が悪いわけではないのだが、現代という時代はそれが一人歩きしていわば「暴走」していると思う。「適切性が暴走する」というのは、自己矛盾的で面白い表現だ。30年、40年前の社会環境と比べてみると、もちろん昔だって「適切性」が蔑ろにされていたわけではない。けれどもそれと同時に「何だかワケが分からないが面白そうなもの」に対する感受性もまた、ある程度共有されていた。関西の言葉で言うと「おもろい」人やモノが評価され、けっこう重要視されたりした。もちろん「おもろい」と思って採用したがクズだった、というリスクもあったが、だから客観的・数値的な基準に変更せよ、とはならなかった。いわば失敗に対する耐性があったということである。
客観的・数値的な適切性と、主観的・直感的判断、ある意味での「いい加減さ」とのどちらが正しいか、どちらに依拠すべきかという問題ではない。問題は両者のバランスである。今の世界は、このバランス感覚が破壊されている。それは「美学」が破壊されているということなのである。