癌のため今年3月21日に亡くなった室井尚さんの追悼集会が(「追悼」という言葉は室井さんにふさわしくないというので別なタイトルで)6月24日には横浜みなとみらいで「室井尚の話をしようか」として、そして昨日7月8日には京都の同志社大学で「スタート地点としての室井尚」として開催された。横浜では横浜国立大学に赴任してからの同僚や卒業生が中心となり、京都では京都大学文学部美学研究室関係、そして最初の就職先である帝塚山学院大学関係の人たちに加え、遠方からも何人かが来てくれた。ぼくはそれら会の両方に、司会のような役割で参加することになった。
室井さんは生きていれば今年4月から、非常勤講師として同志社大学の講義を担当する予定であった。だが本人も現地に赴くだけの体力がない場合を想定し、4回分の講義の動画を作成していた。昨日の同志社の会の第一部では、そのうち最初の2回を上映した。講義はまず「アートは1980年頃に消滅した」というメッセージから始まる。しかしもちろん、その後もアートは現象としては存在しているし、国際的な美術展やフェスティバルはむしろ2000年以降の方が活発になっているし、アートは文化活動としてはむしろ昔よりも目立ってきているように思える。それに対して、「消滅した」と宣言されるのは、そうした文化現象としてのアートではなく、モダニズム/前衛のことであり、その本質は純粋な視覚性の探究であるということが、ヨーロッパ19世紀以降の状況、写真以降の複製技術、印象派、ポスト印象派、前衛美術などを参照しつつ語られる。
学部学生向きの講義ではあるが、昨日の会でも言ったように、ぼくは室井さんがこんな「マトモ」な美術史の話を、脱線や雑談もなしにしているところを初めて見た。こんな授業もするんだ、と驚きでもあった。ただマトモとは言っても、美術史としてはけっこう不正確なこともいっぱい言っている。これは必ずしも美術史が専門外であるからではなく、これまでいっしょに哲学史の話をするときでも、室井さんが口頭で述べる引用や知識はかなりいい加減なことも多かった。ちゃんと調べれば分かるようなことでも、わざと調べないでウロ憶えのまま喋っているようでもある。あるいは自分の主張に沿うようにわざと誇張して記憶しているような場合もある。対談講義などで僕がそういう間違いや誇張を訂正すると、うれしそうに聴いていたりした。
理論研究というのは、誰もが受け入れやすい適切なことだけを言う活動ではない。むしろ「アートは1980年で終わった」というような、極端なことを言ってみることである。そういうテーゼが探求の道を拓く。ぼくの観点からすれば、アートの終焉は歴史の終焉というより大きな変動の文化的な現れの一つなのであるが、そうした文脈化を呼び覚ますのも、このテーゼが極端だからである。もっと穏便な言い方もできるのかもしれないが、それでは抽象化の可能性が閉ざされてしまう。研究も一つの生態系であって、種の保存のような地道な実証的探求の世界もあれば、ウィルスのように領域横断的に情報が行き交うダイナミズムもあって、そのバランスによって全体の活動性が保たれる。現在の研究文化がつまらないのは、抽象化の力が足りないから、言い換えれば、極端な問題提起に対する耐性が弱くなっているからである。つまり知的な意味でも、免疫系が低下しているのだ。
不正確な知識をより正確に訂正したり、不適切で誤解を招く表現をより文句の出ない適切なものに修正したりすることは、たぶん人間よりもChatGPTのような生成系人工知能の方が、ずっと上手に実行するようになるだろう。昔大学院の演習発表などで、指導教授に「なかなかよくまとまっている」と言われるのが何か褒め言葉のように思われていたが、適切な知識内容をいかにも研究論文らしくまとめるような言語活動は、まもなく機械によって完全に代行されることになるだろう、とぼくは思う。こうした主張も極端すぎて不適切と受け取る人もいるだろう。
しかし、室井さんのような研究者の追悼会にあれほど人が集まってくれたことは、適切性だけが基準とされる現在の知的環境を、多くの人が居心地の悪いものと感じているからではないのだろうか。東京から訪れたある同僚から、今どきどんな偉い先生が亡くなってもこれほどみんなが進んで集うような催しは行われない、という感想を聞いた。たしかに、葬儀は家族葬で終わってから簡単な通知が来て、そうかあの先生も亡くなったのかというようなことばかりである。追悼とか記念講演会のようなものは昔ほど開催されなくなったというのも、そうした催しは面倒だし、誰に登壇させ誰を招待するかなどの選択にいろんな配慮が働いて文句が出たり、ようするに不適切となる危険があるからやらない方がいい、という判断だろうか。だとすればここでも、適切性──というより単なるリスク回避──がすべてを支配しているわけである。