本日、美学会の総会と会長交代の挨拶があり、新会長となった吉田寛さん(現在ヨーロッパ滞在中)のメッセージを代読し、その後に辞任にあたっての所感を述べました。以下はそれに若干加筆しテキスト化したものです。
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会長退任の挨拶(2022年10月16日 於京都工芸繊維大学)
美学会会長を2016年から2期6年務めてきたが、今回3年ぶりに対面で開催された美学会全国大会(京都工芸繊維大学 2022年10月14-15日)をもって退任した。
ぼくは京都大学文学部美学研究室の出身で、カント研究から出発し、その後1990年代には現代哲学を中心に研究してきたが、2000年にIAMASに着任する前後から、メディアアート、美術展の企画、批評誌の出版、などの実践的な活動に深く関わるようになっていった。多忙のため、数年間は美学会の例会や全国大会にも顔を出すことができなくなってしまい、(今だから言えるのだが)2005年頃には美学会を退会しようかとすら思っていた。
ところがその頃、自分の古巣である京都大学の美学研究室から誘いを受け、かなり迷ったがお受けすることにした。アジアのメディアアートに焦点を当てた2006年秋の「岐阜おおがきビエンナーレ」の企画でIAMASにおける仕事も一段落したこと、また数年間デジタルテクノロジーの可能性について考えてきたが、2000年以降の世界の変化を見てきて、メディアやテクノロジーそれ自体をもっと根底的な美学的・哲学的なレベルから再考する必要を感じたからである。
その頃どこかで、美学とは「おじいちゃんのコート」みたいなものだという喩えを使った。古くてどっしりと重いが、捨てないで使えば雨風からしっかり身体を護ってくれる、というような意味だった。2000年以降の目まぐるしく変化する世界、「変わらねばならならい」という強迫が支配する世界においては、そこから身を護り、正気を保つために、「美学」というコートは役に立つような気がした。
現実的状況としては、京大美学の教授になったので、美学会との距離は当然急に近くなり、委員や副会長を務めてきた。その後、京都大学文学研究科は2016年に退職し、こころの未来研究センターに異動したのだが、ちょうどその年に美学会会長に選出された。美学の教授ではなくなったので選ばれるとは思わなかったのだが、きわめて有能な本部庶務幹事の福田安佐子さん、そして協力的な委員の皆さんに支えられて、何とか一期務め上げることができた。
2019年成城大学での全国大会は台風19号(ハギビス)のために中止となったが、合同委員会と選挙は実施され、そこで第2期目の会長に選出された。美学会の会長はそれまで1期3年で交代するのが慣例のようになっていたので、これはさらに思いがけない事態であった。台風のせいだろうか? そして年が明けるとまもなく新型コロナ感染症の騒ぎが始まり、世界全体が、それこそ誰も予想していなかった非常事態に翻弄されるようになる。
そんな中でもオンラインで例会、全国大会、委員会などの学会活動は何とか継続し、丸善出版から『美学の辞典』を出版したり(わずかだがその印税が美学会の財政に貢献できた)、美学会ホームページのリニューアルなどを行うことができたのも、ひとえに多くの会員の方々のご協力のおかげである。お世辞ではなく、支えてもらったという感覚が強い。
現在も続いている非常事態は人々を扇動し、正気を失わせる。とりわけこの2年半近く、私たちは不安に煽られて感覚が麻痺してしまい、自分たちがいかにバカげたことをしているのかということに、気づくことすら困難になった。感染症や戦争ばかりではなく、1990年代以降続いてきたグローバリズムや新自由主義的な改革の嵐は、学術や文化にも容赦なく襲い掛かり、美学を含む人文学の危機が叫ばれている。
でも私は、深刻な危機を叫びすぎるのはよくないと思うのである。このような時代には、まず正気に戻ることが必要である。美学という「お爺ちゃんのコート」に護られて考えるのは、このような時代だからこそ、正気を取り戻すためには重要であり、健全なことではないかと考える。人文学の危機と言われるが、人文学的な探究や知識というものは、どんな状況でも人間にとって必要不可欠なものであり、予算配分とか組織改変とかで一時的な変化は起ころうとも、本質的な意味では、絶対に滅びたり衰退することはあり得ない。
「そんな知識が何の役に立つののか」などと問われたりするけれども、役に立つか立たないかと問うこと自体、根本的に間違っているのである。なぜなら私たち自身の生を含め、この世界において真に重要なものは、役に立つ立たない、手段/目的といった基準で測れる合理性の「外」にあるからである。そして人文学の中でも、そうした「目的なき合目的性」を真正面から考察できるのは美学なのである。これからも私は一会員としてこの学会に貢献してゆくつもりなので、美学会会員の皆さんは、自信と誇りをもって研究その他の活動を続けていただきたいと心から願っている。