美学会全国大会とかあって慌ただしく、なかなか各回ごとに定期的に動画版、テキスト版を公開できていなかったが、講義の方は2回目、3回目でマックス・ウェーバーの目的合理性、近代経済学の基本前提、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』における非合理な形而上学的信念(カルヴァンの「予定説」)と資本主義の心的特性(勤勉、禁欲、蓄財の肯定等)の関係について話をした。
同志社大学は組合派のプロテスタントだけれども、学生がみんなクリスチャンというわけではないので、「予定説」といっても馴染みがない人も多い。宗教なんて過去の遺物と思っているマテリアリストの現代人は、なんやかんや言っても死んだら終わり、と思っている人が多い。一方キリスト教では死んだ後自分がどうなるかが、とても大事である。死んだ後に天国に行って永遠の生を受けるか、地獄に落ちて魂まで焼き尽くされ消滅するか、これが気になるので、天国に行くためにはどのように生きたらいいのかと悩むわけである。
カトリックでは、神の教えに従って正しい生活を送ることが天国への近道となる。で、その「正しさ」とは何なのかを知るには、もちろん聖書も大事なんだが、昔は聖書はそこら辺にころがってないし、そもそも字が読めないとアクセスできないし、読めても簡単には意味が分からない(預言者もイエス様も、面白いけど何かよく分からんことばっかり言うから)。そこで教会を通して生活の指針を得ることになる。それによると勤勉、禁欲は悪いことじゃないのだけれど、たとえば蓄財はダメ。地獄に落ちるよ、お金が儲かったら寄付しなさい、ということになる。そして教会の言う通りにすれば、天国に行ける。つまり親の言うことをきいたら褒美がもらえる子供とおんなじで、ガマンしてでもいい子にしてたら、後でいいことがあるよ、というわけ。
それに対してプロテスタント、とりわけ「予定説」では、ある人が天国に行けるかどうかはじめから神様は決めていて、でも人間の側からは自分が救済されるかどうかは絶対に分からない。この世でいくら頑張っても神様の決定を変えることはできないと言う。ものすごい理不尽なことだけど、この方が、神様は徹底的に超越的な存在ということになるね。子供がいくら頑張っていい子にしても、逆に悪さをしても、褒めも叱りもせずただ無表情に見ている厳しい父親を想像してみると、とても怖いでしょ。今どきだと、ほとんど虐待と言っていいな。
で、もしも自分が救われるか地獄に落ちるか絶対に分からないとしたら、そこから生活のどんな指針が出てくるか。これは合理的に決定できないのである。いくら努力しても報われるかどうか分からないような状況だと、そこから「どうせ分からないんだから、好き放題してやれ」ということにもなるし、「分からないからこそ聖書の教えに従って最大限努力すべき」ともなる。それは、現代の無神論者が「どうせ死んだらオワリなのだから、人生なんてどうでもいいや」と思うのと「どうせ一度限りの人生なんだから、自分なりに最善の生き方をしたい」と思うのと、論理的には同型なのである。つまり、合理的な行動指針が不合理な仕方で決定されるということである。
目的合理的な行動、つまり目的のために最適な手段を選択することは、合理性の中にいれば自明のことに見える。でもなぜその目的が設定されているのか、また、なぜ非合理的な行動よりも合理的な行動の方がより善いのか、という根本の理由は、合理的に説明できない。合理性と非合理性は単純でクリアな二項対立なのではなくて、その根底ではウロボロスの蛇みたいに循環している。その意味ではプロテスタンティズムの倫理と脱宗教的な現代人の世界観はあまり変わらないというか、逆に言うと自分は宗教なんか関係なく生きていると思っている人も、実はプロテスタントということになる(「隠れキリシタン」? いやそれだとカトリックか)。
プロテスタントのもう一つの重要なポイントは、教会を介さず個々人が聖書を通じて直接神様やイエス様の言葉と向き合う、ということにある。そのためにはみんなが字が読めて、同時に聖書が広く普及しなければいけない。しかも昔の写本みたいな高価で重たいもんじゃなく、ポケットに入るようなサイズのものとして。そして、識字率の上昇と印刷術の発展によって、実際そのようになった。この、個々人が聖書を通して神と結ばれるという考えは、グローバル資本主義の現代世界ととても相性がいい──ほとんどの人々がいつでもどこでもスマホを見ている今の風景を見ていると、本当にそう感じる。つまり、宗教心があるかないかとか、見ているのが聖書かスマホかということは、あんまり関係ないんじゃないか、と。