今日は、マックス・ウェーバーを中心に合理性、目的合理的行為と資本主義、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』についてガッツリ講義しようと思ったのだが、いよいよ本題に入ろうと思ったら終了のチャイムが鳴った。
それはもちろん、たまたま話題にしたトピックから脱線したり雑談してしまうからで、もちろん自分のせいであり、それがライブの講義のいいところだとも思うのだが、同時に、そもそもこんな週一90分の講義では所詮なんにも喋れないよ、とも感じる。哲学にとって、カリキュラム上の講義時間とかそもそも何の意味もない。無理やり合わしてあげているだけなのだが、そこだけが講義とということになってしまったら、大学で哲学を教えるなんて無意味なんじゃないか‥‥。
それはともかく「合理性(rationality)」である。これは自明の概念のように見えて、まったく自明ではない。合理を徹底的に極めると、非合理に行き着く。そもそも自然は合理的に働いているのだろうか? 違う。自然はただ機械的に作動しているだけである。それに対して合理性とは理性(ratio)に従うという意味だから、自然はそんなもんは知らんし、そんなもんに従う義理はない。だから人間が合理の追求を極めると、それは自然から離反してゆく。けれども人間存在は自然の一部だから、自然から離反したら自身が死んでしまう。生きるために効率最大化を図ったはずなのに、まさにそのことによって滅びてしまうのである。
マックス・ウェーバーは人間が行う社会的行為の類型として、目的合理的な行動とともに、価値合理的行為、感情的行為、伝統的行為を考えた。このうち、感情的(affectional)行為について、授業の中で少し展開した(「展開した」というともっともらしいが、そこから思いついた雑談をしたということだ)。とはいえ美学的確な観点からすると、この感情的行為がいちばん重要であることは確かだ。感情的と言っても”affectional”というのは、内部から湧き上がる情念ではなく、外から影響され誘導される感情ということである。
私たちは自分では合理的判断をしていると思いながら、その本当の動機は上の意味で感情的である(つまり外部から影響を受け誘導されている)ことが多い。それをついつい自分の自然な感情だと思ってしまうのは、単にそれが外部から影響されて生じた経緯を知らないか、あるいは忘れてしまっているからなのである。だからその経緯を知ることは大切なことであり、哲学的な勉強をするというのは究極的にはそういうことだと思う。だがそれは、大学で週一回90分の講義を受けてもなかなか実現できることではない。
しかしまあ、ないよりはあった方がいい、くらいのところかな。とりあえず今のところは。いつクビになるかわからないけど。