「マウントをとる」というのはレスリングか何かの用語かと思っていたら、比喩的な表現のようだった。知的な優劣関係を、知性それ自体によらない要因によって決定する、というようなことかな。つまり年齢とか学歴とか社会的地位とかメディアでの知名度とかによって、「オレはお前より上位だゾ」ということを示して相手を従わせる、ということだろうか。もちろん序列がモノを言うオス同士の社会において典型的な行動である。
そういう行動は散々目にしてきたのだけど、最近この表現が用いられる主な文脈は、マウントをとることはイケナイことだ、という認識が背景になっている。こうした用法には、少しヘンな気持ちがする。「サルでも分かる」という比喩もだけど、なんかサルをバカにしているというか、そんなに人間はエライのですか、という気持ちがする。マウントをとるのがいいことだとは思わないが、たとえ人間であってもオスたちというのはそれくらいバカであり、そのバカさから逃れることなんてできない。オスの宿命みたいなものだから、そんな簡単に自分の意志だけでどうこうできない。
そしてまた、序列がなくなるのは恐ろしいことである。知性というものは複雑だから、その場の議論だけでどっちが正しいとか優れているとか、簡単に決められるもんではない。だからといって、みんな違ってみんないい、ではどうにもならないのである。だから伝統とか権威とかを一応認めて、それが絶対的に正しいわけではないけど、当面はそれで秩序づけておくことが必要である。それも壊してしまったら、もう何がなんだか分からなくなるというか、知的な世界そのものが崩壊してしまうと思う。
たとえばぼくは何十年もカントを読んできたけれど、『純粋理性批判』のテキストは今でもだいたい7割くらいは意味不明なのである。意味不明なのに、そこにまだ自分の理解していない意味が隠れていると思って何度も読んでしまうのは、その著者に知的な権威を認めているということである。ということは、ぼくはカントに「マウントをとられている」のだろうか? この比喩の持つ身体的・性的なコノテーションからして、そんな表現はいかにも不自然だよね。
今は歳をとってそうした経験が少なくなったけど、若い時は年長の研究者たちからさんざん「マウントをとられ」そうになった。それは攻撃ではなくて、「オレに従え、そうしたら護ってやるゾ」というサインだったのだね。しかしぼくはそれらをたいてい無視したので、先輩・先生たちの多くに嫌われたが、その先輩・先生たちを嫌いだった別な先輩・先生たちが認めてくれ、なんとか生き延びてきた。だから「マウントをとる」ことを批判し合ったりするより、嫌なら端的に無視すればいいだけだと思う。
マウント批判をしている人たちは、みんなと平等に仲良くなりたいのかな。ぼくはみんなと仲良くなんてなりたくないし、知的な平等なんて不可能だと思う。