今日の午後、「〈わたし〉の外にある〈こころ〉について」というオンライン講義をした。講義はYouTubeで配信され、記録はいつでも誰でも観ることができる。
https://ukihss.cpier.kyoto-u.ac.jp/2438/
最初は撮影してもらって直接YouTube配信する予定だったのが、京大の感染対策基準が変更されたため、急遽ぼくが自分の部屋からzoomで担当者と繋いで講義をし、それをリアルタイムでYouTubeに配信してもらうということになった。その結果、またしても一人でスクリーンに向かってひたすら話すということになり、そのせいにするのも潔くないけど、時間も限られていたこともあり、少し内容について不十分だったことは否定できない。思いついたことについて、憶えているうちに補足しておきたい。
まあでも、以下は散漫な補足ではある。オンラインでは、講義の後の雑談とか打ち上げとかいったものがないので、下の記事はそういうものの代わりだと思って、気楽に読んで欲しい。
・カーテンレールのこと
正直この話は、こんな公開の講義の初めに使っていいのかという思いはあった。でも加藤有希子さんは小説も出しており、まだ刊行されていないとはいえ、自殺未遂のことを書いた論考を『こころの未来』の原稿として書いてくれた。それを読んだ時、その折れたカーテンレールが彼女の心だったのだと思った。公開のオンライン講義で言ってもいいかと訊ねたらかまわないと言われたので、この話から始めました。
ぼくは彼女の小説『クラウドジャーニー』の解説で、今の世の中には「科学」と「呪術」しかないことが不幸だというようなことを書いた。このカッコ付「科学」とは今日の講義の中の言葉で言えば「科学主義」のことである。そういう意味での「科学」が蔓延ると、同時に「呪術」も蔓延る。「科学」と「呪術」や「魔術」とはセットなのである。これは、19世紀ロマン主義の頃からずっと同じである。だからそのどちらにも属さない「恩寵」(という表現が適切かどうか分からないが)という概念を紹介した。
「正念場」というのは、もともとは浄瑠璃や歌舞伎で登場人物の本性(性根)が現れるような場面という意味らしいのだけど、この「性根」というのが今日最後の方で触れた「自然(フュシス)」に近い概念で、それは進退極まったギリギリの状況で起こる出来事であり、「能力」とか「計画」という捉え方では理解できない。でも起こってしまった後は、色々と分析して因果関係で説明することはできる。正念場は未来形や現在形では意味を持つが、過去形では意味を持たない。
・哲学とは、風変わりなエピソードの寄せ集め?
そのように思うのは、現代文化の陥っている一種のうつ病のような、集団的な心的障害の一つだと思う。有名な人では亡くなったスティーヴン・ホーキングが、今や宇宙の謎を解くのは物理学であって哲学なんて害にしかならない、みたいなことを言っていた。ホーキング博士個人を批難する気もあまりないけど、彼がそうした考えに導かれた理由はよく分かる。現代の知識世界はそうした方向に向かうように、政治的経済的に強く誘導されているからである。
人類が持っている総体的な知識について考える時、現代人の多くはそれを大学、研究組織、予算、ノーベル賞、等々といった制度をベースに考える。そうすると自分が属している研究の共同体にどれだけの予算が回ってくるかということが、最も大きな関心事になるのは当然である。個々の研究者は誠実で良心的な人であっても、集団的には全体の意向に逆らえなくなる、というか、そこまで意識することもなく、自分が誠実で良心的に研究していると、自然に全体の意向に沿うようにならざるを得ない。
哲学や人文学ももちろんそうした趨勢に巻き込まれてはいるのだけど、そもそもたいした利益を生まないので、勝手なことを言う人がいる。それが実は国家にとって重要な資源なのである。資源とは例えば、何でも望みのことをしてやろうと言ったアレキサンダー大王に対して「お前がそこに立っていると影になって寒いから、どけ!」と言ったディオゲネスの言葉である。それを聞いてアレキサンダーは、もし自分が世界の支配者にならなかったらディオゲネスになりたかったと呟いたと言われる。
今日の講義では、哲学は風変わりなエピソードの寄せ集めではない! と言ってしまったけど、本当は、風変わりなエピソードの寄せ集めでいいのかもしれない。ただ、風変わりなエピソードがなければ国家そのものが立ち行かない、とぼくは確信している。
・コロナ脳とスマホ脳
エピクロス、ルクレティウス、スピノザ、現代の唯物論などについては、また改めてじっくりと話したいと思う。今日の講義で時間がなかったのは、アンデシュ・ハンセンの『スマホ脳』と、その背後にある進化人類学・進化心理学を基にした、私たちのネット中毒についての科学的解釈である。それは今のコロナ状況も深く関わっていて、彼の言う「スマホ脳」はある意味「コロナ脳」よりも深刻かもしれない、というか、「コロナ脳」は「スマホ脳」を基盤としてその上に形作られている。
もはや、国や世代を問わず、大体世界中の人がみんなネット中毒になっているが、こんなことは冷静に考えてみて、前代未聞である。デカルトやスピノザの時代の人が見たらもちろんビックリするだろうけど、そこまで過去の人たちを呼び出さなくても、ほんの30年前の人が見ても信じられないような社会と文化の激変であると思う。けれども、ほとんどの人はその渦中にいるから分からない。歴史というのはいつもそうで、とんでもないことが起こっているのに、みんなその渦中にいるから分からないだけなのである。
そうした最近の激変とはウラハラに、私たちの身体は変わらない。身体は進化の結果だから、そんな簡単に変わるわけがない。文明が激変するのに身体が変わらないといことが、特に近代以降の文明の主要問題の根本的原因である。「文化の中の居心地の悪さ」(フロイト)である。ハンセンの本にある、人類は昔から仲間内で殺し合ってきたので、自分が殺されないように自分語りをして仲間の承認を確認する必要があり、それがFacebookで自分の投稿に「いいね」が付くことを気にする行動に継続しているというのを読むと、もう暗澹とした気持ちになるけど‥‥(笑)、まああんまり深く考えず、しょせん人間とはその程度のもんだと考えた方がいいのかもしれない。
ザッカーバーグやスティーヴ・ジョブズのような人たちはネット文化の危険性をよく分かっていて、またSNSの開発のトップにいる人たちはこの危険な発明から自分たちはどうやって身を守ろうかと考えていたようだ。ジョブズの家にはiPadがなかったらしい。家族にこんな危ないものを触らせられないから。それはひどいよね。核兵器の開発者が自分はこの脅威からどうやって逃げようかと考えていたようなものだが、でも彼らもデーモンではないから、本当に怖かったのだと思う。
とにかく、しょせん人間なんてその程度のもんだよね、と言いあえるコミュニティは大事だ。それが哲学の授業だと思う。対面の方がいいけど、ネットでもないよりはマシだ。
質問には、ネット上で自分の考えを押し通す人たちとどう折り合いをつけたらいいか、というのもあったけど、ネットで喧嘩したり炎上したりしているのはしょせん我々のような無力な人たち同士なので、どうして弱い自分たち同士がこんないがみ合うような状況に置かれているのか、こうした弱いもの同士をケンカさせておくことでトクしているのは誰か、ということに想像力を使った方がいい。
こんなところかな。スクリーンに向かって話すのは正直居心地は良くなかったけど、最後は質問に答えたりもして、楽しかった。