映画「ノマドランド」で、キャンピングカーで暮らす主人公ファーン(フランシス・マクドーマント)が、昔教員をしていた時の元学生の女性と、スーパーマーケットでたまたま出会あう。心配する彼女に今の境遇を伝えると、その女性の連れていた小さな女の子が、「おばさんはホームレスなの?」と聞く。ファーンは「わたしはね、ホームレスじゃないのよ、ハウスレスなだけ」と答える。
「ホームレス」、つまり「故郷喪失者」ではない。ただ「ハウス」、つまり固定した家がないだけ、という意味である。ファーンにとって、自分のキャンピングカーが「ホーム」だからだ。仲間の「ノマド」たちの多くにとって、そうであるように。でもハウスに住む多くの人はそれを「ホーム」とは認めてくれない。なぜか? それはたぶん、動くからだろうか。けれどもそんなのは偏見である。固定されていようが動いていようが、自分がいつもそこへと帰ってゆくところは「ホーム」だろう。地球だって動いているんだから。
逆に、固定されていさえすれば、それは「ホーム」なのだろうか? 利便性だけで選んだ高級マンションに住み、隣にどんな人がいるかも知らず、将来もっと有利な物件があればいつでも住み替えるような居宅が、なぜ「ホーム」と言えるだろうか? グローバルな視点を持ち、税金がより安くより儲かる所なら外国であろうがどこにでも住み、不都合が生じればすぐに次の最適な場所を求めて移動するような人たち。いわゆる「Anywhere族」。「ノマド」に一見似ているが、彼らには固定されたホームも移動するホームもない。そうした人々をこそ、言葉の本来の意味で「ホームレス」と呼ぶべきではないだろうか。
いわゆる「ホームレス」は、実はたいした問題ではない。本当は固定した家に住みたいのに経済的な理由からそうできない人々には、公的な資金でそうした生活を保証すればいい。日本の生活保護は申請も大変で周囲の偏見も強いから、そこを改善すべきである。もちろん中には、あえて公的補助に頼らない生活を頑固に選び取っている人もいるだろうが、それはまあ放っておくしかない。世の中には常に変わり者がいるし、みんなが同じ価値観で生きている世界もつまらないから、少しくらいは大目に見ればいい。
そんなことよりもはるかに深刻な問題は、本来の意味での「ホームレス」である。彼らは固有の場所に帰属して周りの人々と助け合って生きることの価値を認めず、自分の能力と努力によって稼いだお金で裕福に暮らせるのは自分の当然の資格だと考えており、それができない人々は自己責任だと思っている。こうした「ホームレス」は地下道や公園に寝ているのではなく、投資家、企業経営者、政治家、ネット上の成功者、等々といった姿をとって、現代社会の上層に跋扈している。
ホームレスは臭いし、汚いし、この世界にいて欲しくない、といった罵詈雑言は、天に向かって唾を吐くごとく、彼ら本来の意味での「ホームレス」の上に返ってくるだけだと思う。
今日の午後、「〈わたし〉の外にある〈こころ〉について」というオンライン講義をした。講義はYouTubeで配信され、記録はいつでも誰でも観ることができる。
https://ukihss.cpier.kyoto-u.ac.jp/2438/
最初は撮影してもらって直接YouTube配信する予定だったのが、京大の感染対策基準が変更されたため、急遽ぼくが自分の部屋からzoomで担当者と繋いで講義をし、それをリアルタイムでYouTubeに配信してもらうということになった。その結果、またしても一人でスクリーンに向かってひたすら話すということになり、そのせいにするのも潔くないけど、時間も限られていたこともあり、少し内容について不十分だったことは否定できない。思いついたことについて、憶えているうちに補足しておきたい。
まあでも、以下は散漫な補足ではある。オンラインでは、講義の後の雑談とか打ち上げとかいったものがないので、下の記事はそういうものの代わりだと思って、気楽に読んで欲しい。
・カーテンレールのこと
正直この話は、こんな公開の講義の初めに使っていいのかという思いはあった。でも加藤有希子さんは小説も出しており、まだ刊行されていないとはいえ、自殺未遂のことを書いた論考を『こころの未来』の原稿として書いてくれた。それを読んだ時、その折れたカーテンレールが彼女の心だったのだと思った。公開のオンライン講義で言ってもいいかと訊ねたらかまわないと言われたので、この話から始めました。
ぼくは彼女の小説『クラウドジャーニー』の解説で、今の世の中には「科学」と「呪術」しかないことが不幸だというようなことを書いた。このカッコ付「科学」とは今日の講義の中の言葉で言えば「科学主義」のことである。そういう意味での「科学」が蔓延ると、同時に「呪術」も蔓延る。「科学」と「呪術」や「魔術」とはセットなのである。これは、19世紀ロマン主義の頃からずっと同じである。だからそのどちらにも属さない「恩寵」(という表現が適切かどうか分からないが)という概念を紹介した。
「正念場」というのは、もともとは浄瑠璃や歌舞伎で登場人物の本性(性根)が現れるような場面という意味らしいのだけど、この「性根」というのが今日最後の方で触れた「自然(フュシス)」に近い概念で、それは進退極まったギリギリの状況で起こる出来事であり、「能力」とか「計画」という捉え方では理解できない。でも起こってしまった後は、色々と分析して因果関係で説明することはできる。正念場は未来形や現在形では意味を持つが、過去形では意味を持たない。
・哲学とは、風変わりなエピソードの寄せ集め?
そのように思うのは、現代文化の陥っている一種のうつ病のような、集団的な心的障害の一つだと思う。有名な人では亡くなったスティーヴン・ホーキングが、今や宇宙の謎を解くのは物理学であって哲学なんて害にしかならない、みたいなことを言っていた。ホーキング博士個人を批難する気もあまりないけど、彼がそうした考えに導かれた理由はよく分かる。現代の知識世界はそうした方向に向かうように、政治的経済的に強く誘導されているからである。
人類が持っている総体的な知識について考える時、現代人の多くはそれを大学、研究組織、予算、ノーベル賞、等々といった制度をベースに考える。そうすると自分が属している研究の共同体にどれだけの予算が回ってくるかということが、最も大きな関心事になるのは当然である。個々の研究者は誠実で良心的な人であっても、集団的には全体の意向に逆らえなくなる、というか、そこまで意識することもなく、自分が誠実で良心的に研究していると、自然に全体の意向に沿うようにならざるを得ない。
哲学や人文学ももちろんそうした趨勢に巻き込まれてはいるのだけど、そもそもたいした利益を生まないので、勝手なことを言う人がいる。それが実は国家にとって重要な資源なのである。資源とは例えば、何でも望みのことをしてやろうと言ったアレキサンダー大王に対して「お前がそこに立っていると影になって寒いから、どけ!」と言ったディオゲネスの言葉である。それを聞いてアレキサンダーは、もし自分が世界の支配者にならなかったらディオゲネスになりたかったと呟いたと言われる。
今日の講義では、哲学は風変わりなエピソードの寄せ集めではない! と言ってしまったけど、本当は、風変わりなエピソードの寄せ集めでいいのかもしれない。ただ、風変わりなエピソードがなければ国家そのものが立ち行かない、とぼくは確信している。
・コロナ脳とスマホ脳
エピクロス、ルクレティウス、スピノザ、現代の唯物論などについては、また改めてじっくりと話したいと思う。今日の講義で時間がなかったのは、アンデシュ・ハンセンの『スマホ脳』と、その背後にある進化人類学・進化心理学を基にした、私たちのネット中毒についての科学的解釈である。それは今のコロナ状況も深く関わっていて、彼の言う「スマホ脳」はある意味「コロナ脳」よりも深刻かもしれない、というか、「コロナ脳」は「スマホ脳」を基盤としてその上に形作られている。
もはや、国や世代を問わず、大体世界中の人がみんなネット中毒になっているが、こんなことは冷静に考えてみて、前代未聞である。デカルトやスピノザの時代の人が見たらもちろんビックリするだろうけど、そこまで過去の人たちを呼び出さなくても、ほんの30年前の人が見ても信じられないような社会と文化の激変であると思う。けれども、ほとんどの人はその渦中にいるから分からない。歴史というのはいつもそうで、とんでもないことが起こっているのに、みんなその渦中にいるから分からないだけなのである。
そうした最近の激変とはウラハラに、私たちの身体は変わらない。身体は進化の結果だから、そんな簡単に変わるわけがない。文明が激変するのに身体が変わらないといことが、特に近代以降の文明の主要問題の根本的原因である。「文化の中の居心地の悪さ」(フロイト)である。ハンセンの本にある、人類は昔から仲間内で殺し合ってきたので、自分が殺されないように自分語りをして仲間の承認を確認する必要があり、それがFacebookで自分の投稿に「いいね」が付くことを気にする行動に継続しているというのを読むと、もう暗澹とした気持ちになるけど‥‥(笑)、まああんまり深く考えず、しょせん人間とはその程度のもんだと考えた方がいいのかもしれない。
ザッカーバーグやスティーヴ・ジョブズのような人たちはネット文化の危険性をよく分かっていて、またSNSの開発のトップにいる人たちはこの危険な発明から自分たちはどうやって身を守ろうかと考えていたようだ。ジョブズの家にはiPadがなかったらしい。家族にこんな危ないものを触らせられないから。それはひどいよね。核兵器の開発者が自分はこの脅威からどうやって逃げようかと考えていたようなものだが、でも彼らもデーモンではないから、本当に怖かったのだと思う。
とにかく、しょせん人間なんてその程度のもんだよね、と言いあえるコミュニティは大事だ。それが哲学の授業だと思う。対面の方がいいけど、ネットでもないよりはマシだ。
質問には、ネット上で自分の考えを押し通す人たちとどう折り合いをつけたらいいか、というのもあったけど、ネットで喧嘩したり炎上したりしているのはしょせん我々のような無力な人たち同士なので、どうして弱い自分たち同士がこんないがみ合うような状況に置かれているのか、こうした弱いもの同士をケンカさせておくことでトクしているのは誰か、ということに想像力を使った方がいい。
こんなところかな。スクリーンに向かって話すのは正直居心地は良くなかったけど、最後は質問に答えたりもして、楽しかった。
IAMAS卒業生のハヤカワ君とオノデラ君のやっている「生きづらジオ」が再開したようだ。昨年の大晦日、ぼくをゲストとして呼んでくれたYouTubeの番組である。それで、久しぶりに聴いてみた。
ハヤカワ君が、調子が悪くて仕事する気力はないのに、何かの用で電気屋さんに行ったところ、そこの店員の対応が悪かったということについてクレームを言うことには気力が出るのはなぜか、ということが話題になっている。
何でもない話題のように聞こえるかもしれないけど、現代社会の「生きづらさ」が生まれるその根源に関わる、重要なトピックではないのだろうかと思った。
つまりハヤカワ君のように社会的に弱い立場(「メンヘラ、バツイチ、引きこもり、無職」)にいる人が、顧客という(少なくともその場においては)強い立場にある時、店員という(少なくともその場においては)弱い立場にいる人に対して、苦情が言えるはずだと感じてしまうのは、その背後に「やっていいんだよ」という〈社会の声〉があるからではないかと思う。
このように言うのは、ハヤカワ君を責める意図ではまったくない。彼は番組中の発言でも分かるように、その時にはついクレーマーになってしまったけど、そのことをちゃんと反省したり考えたりできる人である。それに対して私たちのほとんどは、そうした反省はなかなかできない。
誰がどうこうと言うことではなく、考えてみたいのは、私たちが何かにクレームを言いたい気分になった時、それを「やっていいんだよ」と後押ししてくれるこの〈社会の声〉の主とは、いったい何者なのか? ということである。その〈声〉がなければ、私たちは誰かに気軽にクレームを言ったり、SNSで特定の人をみんなでdisったりすることは、なかなかできないはずなのである。
対話相手のオノデラ君は、よく似た自分の経験について言及している。スーパーでレジに並んでいる時、隣の列はスイスイ進むのに、自分の列はなかなか進まない(いわゆる「マーフィーの法則」というやつだ)。見てみると、自分の列のレジのおばさんの処理が遅いのである。新米で慣れてないから遅いというより、その人はそもそもそういう作業が遅いらしい。
そうした時に「オイ、スーパーのレジとはいえプロなんだから、もっと早くやったらどうなんだ? おかげでこっちは時間を無駄にされてるんだゾ!」みたいなクレームをつけるべきかどうか、ということである。
現代の社会では、その種のことを「やっていいんだよ」という声が、けっこう広範囲に、背中を後押ししてくれるような気がする。そういう場面で何もしないで帰ると、今度は家族や友達から「何で文句言わなかったのよ?」と責められたりするからである。
もちろんあまりに不当な扱いや、健康や生命に関わる不手際に対しては、抗議をするのは当然である。けれどもそうしたケースは稀で、現代の私たちは自分に直接関わりがないことでも、些細なことでも、あるいは他に考えようのあることでも、とにかくクレームを付ける対象はないかと探しているようなところがある。ネットの世界は特にそうだ。
政治家が「失言」したり有名人が何か「アウト」なことを言ってしまうのも、こうした「やっていいんだよ」という社会の〈声〉に後押しされているように思うし、またそうした発言が出た瞬間、よってたかって非難するのも、やはり社会の〈声〉に後押しされているのだと思う。
批判的になること自体はもちろん悪いことではない。でも批判にはコストもかかるし、自分を晒す決意もいる。「やっていいんだよ」という社会の〈声〉は、そうしたコストなし、決意なしに、みんなで他人を吊し上げてもいいんだよ、と囁くのである。
こうした社会の〈声〉に従属するのを自分の良心と勘違いして、自分はいいことをしてるのだと確信してしまう傾向は、年齢や経験にも、知識や教養にも、それほど関係がないように思える。政治家でも著名人でも、何かの専門家でも、大学教授でも、ダメな人はダメなのである。
そう考えると絶望的にも思えるのだが、この「やっていいんだよ」という囁きに対して、「お前は誰だ?!」と振り返ることはできるし、振り返る人もいる。明白な言葉にできなくても、これは何かおかしい、と感じる力である。それは世界に対して根本的な問いを立てることの面白さであり、それが「生きづらさ」に対処する唯一の道だと考える。そうした振り返りをプロモートするのが、ぼくが話したり書いたりしている目的ではないかと思う。
分かっている人には今さら何?と思われるかもしれんけど、このタイトルの文言はルイス・ブニュエルの映画「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」(1972)から引用した。とはいっても、ちょっと思いついたというだけで、そんなに深い関連性はない。
ただ、現代において、そして自分の身近な世界において、「特権」とはそもそも何なのだろうかと考えてみたかったので、引用してみただけなのである。
「特権」は、歴史的には「階級」に付随する属性であって、そうした伝統的な意味での「特権」は、フランス革命以来、近代的な国家においては廃止されてきたという事実は、もちろんぼくが言うまでもない。
だが、そうした歴史的進展よって「特権」は今の時代には消滅したのかというと、決してそんなことはない、とぼくは考えている。「特権」に甘んじる人間の精神(というか、精神の弱さ)は、この現代においても別な形で、しっかり自分の活動場所を見出しているのではないか。
人間は基本的に進歩などしないので、いくら時代が降っても、人間が過去に示した愚かさは単にその見え方が変わるだけで、別な所にしっかり温存さているとぼくは思っている。そんなだったら絶望的ではないですか!と言う学生もいる。そうかもしれないけど、仕方がないのである。
それでも進歩しよう、もっと世界を良くしようと思うことは大切だし、ぼくも協力する。そうでなければ、そもそも先生とかやっていられない。けれども、努力しても結果として進歩が見られないのは、しょうがないなあとため息する。「奮闘努力の甲斐もなく/今日も涙の日が暮れる」という、フーテンの寅さんの心境である。
けれども人間はしょせんその程度のもんだと思うから、あんまり絶望しすぎない方がいいと思う。そのことが分かるだけでも、まあいいではないか。
例えば学術雑誌などの「査読者」と言うのは、たまたま選ばれた人たちであって、もちろん「貴族」とか「ブルジョワジー」のような、生活のすべてにおいて特権的な階級というわけではない。お金がもらえるわけでもなく、表立ってエラソーにできるわけでもない。むしろ、学会発表や学会誌に掲載する論文の質を担保するために必要な役割だから、本当は面倒だしやりたくないけれど、お役目だから仕方なくやっている、という人が多い。
あるいは、新しい大学を設置したり、既存の大学に新たな学科や学部を設置したりするために、文部科学省に申請された書類を審査する専門委員会というものがある。この審査員は関連する大学の学長や学部長クラスの先生たちで、たいした報酬をもらうわけでもなく、忙しい業務の合間を縫ってわざわざ協力してくれている人たちである。これももちろん、特権階級とは程遠い。
それでもこうした世界においては、いわば「特権」の亡霊のようなものが、姿を現すことがあるのである。
どうしてそんなことが言えるかというと、ぼく自身がこれまで、いくつかの学会誌の査読委員会に出たり、それどころか委員長をしたり、あるいは文部科学省の大学設置審議会の専門委員をしたり、あろうことかその委員長をしたり、してきたからである。
たとえば学会の査読委員会というような所で気がつくのは、ふだんは謙虚な感じの先生が、突然エラソーな口調で話し始めることである。それはその人の人格の問題というより、査読者という立場に置かれると、読まされた論文について何か批判的な意見を述べなければ仕事しているように見えないから、そうしてしまうのだと思う。つまり、マジメだからつい「査読者」の役割を演じてしまうということである。
しかし、さらに一歩突っ込んで考えてみるなら、その先生は仕事を真面目に果たすためとはいえ、後輩の論文に厳しい意見を出すことが、やはり秘かに「愉しい」のであり、だからそうするだと思う。それがなぜ「愉しい」のかは難しい問題だけれど、ひとつには、匿名的だからだろう。
査読者はみずからのアイデンティティを示さないままに意見を言える。もちろん査読される論文の執筆者も、たいていの場合その氏名や所属は隠されているが、それは査読委員会に対して技術的に隠されているだけであって、本当は投稿の段階で知られている。だから査読者と被査読者との間には、圧倒的な非対称性があるのである。
投稿論文に対して査読者がいくら辛辣な批評をしようが、そのことを咎められることは稀である。辛辣な意見を言うことはむしろ、「ちゃんと仕事をしている」として、同僚の査読者たちからは評価すらされる。「そんなエラソーなこと言って、お前はどうなんだ?」などと同僚に突っ込む査読委員はいない。みんな同じ穴のムジナだからね。タヌキとして言うけど、これは悪口じゃないよ。
大学の設置委員会でもかつて、同じようなことを経験した。ある新設の大学で、主力の教員として予定されていた人が海外の大学から招かれ最初の一年間講義を担当できないことが分かり、集中講義で対処するので了承してほしいという願いが、委員会に回ってきたことがある。その時委員長だったぼくは、それはその教員が優秀ということだから別に構わないでしょう、と通すつもりで発言した。
すると委員のひとりが、初年度に主力の教員が講義できないというのは、文科省の掲げる単位の実質化という観点からいかがなものでしょうか、という疑義を述べたのである。ぼくは耳を疑った。なぜならその人は、以前休憩の時に喫煙室で、文科省が単位の実質化とか言って年間の講義日数とかうるさく言うから、こんなんでは教育なんてできませんよねー、とか雑談していた人だったからである。
ぼくは別に、そういう人を個人として責めたいとは思わない。フツーの人間は、そういう立場にたたされると、ついそういうことを口にしてしまうのだと思う。「特権」と言うにはあまりにメリットがない立場だが、それでも、ナイーブな大学の先生にとっては国の委員会に招聘されたりそこでの自分の発言が新たな大学の設置に影響を与えることが、「秘かに愉しい」のである。
京都大学のような大きな組織に長年いると、研究科長になったり大学の理事会などの役職に着いた途端、「え、あの先生が?」と驚くような振る舞いをし始める人がいる。そうしたことも、その人がそもそもそんな人だった、と失望するというより、現代化された「特権」のもたらす「秘かな愉しみ」に耐性がなかったために、「特権」の犠牲になってしまったのだろう、と思う。
こんなことを呟いても世の中になんの進歩ももたらさないことは分かっているのだけれど、「特権」の亡霊というものはある、という知識だけは、まだ「特権」の恩恵(あるいは被害)を受けていない若い人たちとも共有したいので、こういうことを書いてしまうのである。