「蘆刈」が終わって先週から「陰翳礼讃」の話をする予定だったが、その前に昭和4年に書かれた「現代口語文の欠点について」というエッセイのことを少し話した。これは後の「文章読本」(昭和9年)に先立つ、日本語の現代文章語についての考察だが、私たちが今日も論説文の標準として用いている「である」体がいかにレパートリーが貧しく不自由かという話である。
ぼく自身、中学生くらいから作文を「である」体で書くように指導された時、難しくはないのだが大変に不自由な感じがして、同じことでも「である」とすると自分で考えているのではないような、奇妙な気持ちになったことを憶えている。(というか、実は今でも「である」体には基本的な違和感がある。「ヌーちゃん」語はその違和感を発散するために書いているような気もする。)
「あるのである」もよく考えるとおかしいし、「ないことはないのである」なんて、考えてみると狂気の沙汰だ。でもそう書かないと、論文らしく見えない。形式だけの問題だろうか? こういう貧困な文体で思考していると、考える内容も痩せ細ってくるのではないだろうか、とぼくは思うのだが。
谷崎の推測によると、たぶん明治の初めに薩長土肥はじめ地方から東京に集まった言論人たちが、中立的な言文一致の文体を無理やりでっち上げた結果生まれたものであると同時に、そこには江戸の敗残の御家人や町人に対してエラソーにものを言おうとする調子が残っていると言う。この推測が正しいのかどうか分からないが、そう考えると「である」体に対してぼくが抱いている違和感がかなり説明できるような気はする。
さて、では「陰翳礼讃」だ。
まずこれは日本の美学を語るものとして世界的に非常によく知られたテキストではあるのだが、内容的には、そんなに深い思索が積みかねられた論考ではなく、思いつきで行き当たりばったりの論評がつながった、どちらかというと軽いエッセイだと思う。だから、ある意味深読みされすぎてきた作品ではないだろうか。
初出は昭和8年『経済往来』という雑誌に掲載されたのだが、世界的に有名になったのは、戦後の1950年代にエドワード・サイデンステッカーが抄訳と解説を付けて英語世界に紹介し、その後全訳が出版されたことがきっかけである。なぜこれが英語(その他の欧米語)読者に人気があるかというと、まず第一に、わりと単純に西洋的な美学と日本(あるいは東アジア)的な美学とが対立させられていて分かりやすいからだと思う。
その点では岡倉天心の『茶の本』もそうで、これは日本の読者が考えているよりもはるかに広く世界的に知られているのだが、ひとつにはこれは最初から英語で書かれたということもあるけど、それよりも「西洋人諸君、我々の文化は違うのだよ」という語りのスタイルが魅力的なのだと思う。
とにかく「陰翳礼讃」は礼賛されてきた。英語版のWikipediaを見ると、この作品は現代のエコロジー思想を予見するものだとか、マインドフルネスの実践だとか書いてある。ええ、ほんとか? と思いますね。こんな短い、思いつきを並べたようなエッセイに、いくら何でも深読みしすぎではないか。「陰翳礼讃」に通底する関心というのは、西洋近代に対して過去の日本の美学を賛美するというより、西洋近代の利便性(電気とか水洗トイレとか)は取り入れて、でもそうした機能性が和風の美観を損なわないようにするには、どうデザインしたらいいか、ということである。
つまり「ええとこ取り」をしようとしている、ということである。でもその記述はいろいろと具体的なので、ある意味本当にデザインの参考になると思えるかもしれない。
「陰翳礼讃」だけではなく、一般に谷崎潤一郎という作家について考えるとき、ぼくがいつも重要だと思っていることは、初期の耽美派やバリバリのモダニズムだったのが昭和に入って日本回帰したとかいうような見方があるけど、実は谷崎は別に日本に「回帰」なんてしておらず、モダンなものを徹底的に追求した結果、モチーフとしては日本的なトピックに到達したというだけではないのか、ということである。「陰翳礼讃」も、西洋に対して日本的・東アジア的な美学を主張しているように見えて、実はそれ自体が超西洋的なテキストなのではないか、と。
それはそれとして、昭和の初めに何が伝統的で何が近代的に見えたのか、というような歴史的関心から読むのも楽しく、講義では「有明行燈」だとか「タイル」だとか「わらんじや」というお店のこと(これは「うぞうすいのわらじや」のことなのかそれとも違う店なのか)とか六世尾上梅幸のこととか、いろいろと調べて考えてみるのも非常に面白いのである。