谷崎潤一郎「蘆刈」については一応先々週で講義を終わり、先週木曜日からは「陰翳礼讃」という、こちらの方が直接「美学」に関わるとはいえ、歴史的・政治的な観点から問題の多いテキストを検討してみる予定だったが、なかなか、そんなにうまくは進まない。
そもそもこの「蘆刈」とはどういう話であり、いったい何が面白いのか、ということを、先々週の講義では総括しようと試みた。
お遊は家族や親戚からのプレッシャーもあり、また自分も再婚する気はない。そこで芹橋は妹のお静と結婚することになる。お静もまた姉を崇拝しており、そして芹橋が自分を求めたのではなく、姉のお遊と会う機会を持つために自分と結婚したことを初めから知っており、しかもそのことを認めている。だから自分が芹橋と夫婦関係を持てば姉を裏切ることになるので、私たちは形だけの夫婦でいましょう、と言う。一方まかり間違って芹橋がお遊と関係を持つ可能性については、どこか期待しているような面もある。
芹橋はお静のそうした自己犠牲を目の当たりにして、お前がそんな覚悟で私のところに来たからには、私もお前を差し置いてお遊と関係を持とうなどとは思わない、と言う。その結果、この三者はまるで本当の兄弟姉妹のように、身体の繋がりはどの二者も持たないまま、子供のように戯れあっているような関係が続いてゆく。
だがそれは、プラトニックな関係とか、精神的な結びつきとは程遠いものである。
お遊は冷え性なので、脚が冷えて眠れない時、以前は体温の高いお静の脚を絡ませて暖めてもらっていた。お静が嫁に行ってからはそれができなくなり、女中にやらせてみたがどうもうまく行かない。そのことを知ると、お静は喜んでお遊の床に入ってゆき、昔と同じように姉の脚を温めてやる。
もっとすごいシーンは、三人で吉野に遊びに行ったとき(そんな旅行自体が異常ではあるが)、お遊は乳が張って苦しいと言い、お静に自分の乳を吸わせる(幼い息子は乳母に預けて置いてきている。これも現代の常識からすると異常に思えるだろう)。お静は「私は姉さんの乳を吸うのは慣れてます」と言って平気で吸う。それを見ている芹橋が「どんな味がする」と聞くので、お静が茶碗に受けて飲ませると、芹橋はさすがに恥ずかしくなって席を立つ。それを見てお遊は面白そうに笑うのである。
母乳に性的な意味を持たせる母乳フェティシズムは、「カリタス・ロマーナ」はじめ昔から広く知られたトピックであるが、「蘆刈」のこのくだりは三島由紀夫の「金閣寺」に出てくる、出征する士官の妻が自分の乳を茶碗に出してまるで茶事のように夫に飲ませるところを、語り手の溝口が南禅寺の山門から覗き見るというシーンを連想させる。
妹夫婦が自分に操を立てて関係を持たないことを知ったお遊は、私のためにそんな犠牲を強いるのは後生が恐ろしいと、芹橋と夫婦になるよう妹を説得しようとするが、お静は、姉さんも亡くなった義兄に操を立てて誰とも関係を持たないのだから、私もそうします、と理屈の合うような合わないようなことを言う。それを知った芹橋もまた、二人の女がそんな誓いを立てているのなら、自分もまた抜け駆けをしてお遊と関係を持つようなことは決してない、と言うのである。
合理的に考えると、筋が通っているようで、根本的に奇妙である。動機として合理性はないのだが、感情のパターンが連鎖してゆくエネルギーがあり、物語に身を任せて読んでいくと、そうした感情の流れは理解できるような気もして、その意味では筋が通っていると思える。
それにしても、こんな話を読むことに、いったい何の意味があるのだろうか? これはリアリズムでは全然ない。人間とはこういうものだ、と教えてくれるわけでもなければ、人生について何か教訓を与えてくれるわけでもない。
こうした物語(谷崎の物語だけではなく、浄瑠璃など近代以前の多くの物語)は、私たちの感情の動きの幅を拡張してくれる点に、リアリスティックな近代的物語にはない大きな価値があるのではないかと、ぼくは考えている。それはいわば「心のヨガ」のようなものである。ヨガのような姿勢や動きは日常生活では別に必要ではないから、それを練習しても何かに役立つわけではない。またその姿勢は少し無理があり痛みも伴うが、同時に少し気持ち良くもある。
ヨガは健康に役立つのだろうか? もちろんそうした利得を求めてヨガをする人も多いだろうし、結果的には役立つのだろうが、原理的にはたぶん、役立つかどうかは関係ないのだと思う。ヨガをすること自体が、自分の身体の非日常的な能力が自覚されてちょっと面白いからするのだろう。それと同じように、物語を注意深く読むこともたぶん、自分の感情に潜在していた未知のレパートリーを探究するのが面白いのである。
これら登場人物の関係や振る舞いは、もちろんそれ自体は道徳的ではない。だがぼくは、谷崎を耽美的な作家だとは全く考えない。こうした物語は、何らかの仕方で道徳と深く関係しているのである。私たちが自分の感情の幅を広げることを面白いと感じるのは、そうした関係に関心を持つからだろう。だがそれは指示的な関係ではなく象徴的な関係である。「美が道徳の象徴である」(カント)というのはそういうことではないかと思う。