また著作物の使用許諾願いが来ていたので、開けてみると、今回のは大学ではなく、九州のある進学校の高校入試の問題だった。もう入試自体は終わっているのだから、使用許諾じゃなく事後追認ということである。知らせてくれるだけで十分なのだが、実施後受験者が問題用紙を持ち帰ることを許しているので、その人数分に相当する著作物使用料として2,000円を支給するが、それでよいかという問い合わせである。(不可の方にマルをして返したらどうなるのだろうといつも思う。)
それにしても、設問は解けない。漢字の書き取りはできるけど(笑)、「傍線部において作者が言おうとしていないことは次のうちどれか。6つの中からいくつでも選べ」というよう問題は、作者の僕にはほとんど分からない。40数年前、自分が受験生だった頃はこういう問題が解けたのだろうか。それも憶えていない。いずれにしても中学3年生がこんなことをやらされる(そして出来る子がいる)ということが、今は想像し難い。
この夏も高校生に講義をする機会があるのだけど、高校生たちはそういう問題が解けることを、文章読解力だと思っているかもしれない。そういう訓練の延長線上に学者とか作家とか文章を書くプロの大人がいると想像しているかもしれない。それは違うよね。その延長線上にいるのは、強いて言えば国語の先生です。だから国語の先生になりたいならそういう訓練をしなきゃいないかもしれんが、ほとんどの子は国語の先生になりたいわけじゃないよね。
なんでこんなことになるかというと、それは学習指導とか評価とか試験とか、学校教育をシステムとして潤滑に運営していくために、それに合わせて教育の内容を整備するからである。だから国語という教科は日本語のためにあるというより、国語教育のためにある。国語に限らない。数学だって数学そのものではなく、数学教育に都合がいいように作られている。もしも現代日本の微積分の問題をニュートンに解かせたら、なかなか解けなかったり変な解法を発明したりして、あんまりいい成績はもらえないと思われる。
こういうことを言うと、それではもっと学校教育を改革せよと言う人が出てくるが、僕はそれも全然賛成できない。改革はもうイヤというほどされてきたからである。知識の詰め込みではなく思考力を重視するだとか、文法と訳読だけではなくもっと使える英語にすべきだとか。入試や共通試験のあり方もコロコロ変えられてきた。そうやって教育の内容をいじればいじるほど、全体として教育は劣化してゆく。結局、何もしない方がまだマシだった。
何が間違っていたかというと、実は簡単なことなのである。学校教育とは制度であるのに対して、言語の理解運用や科学的思考とは制度ではなく、自由な知的能力である。自由な知的能力は、人格的関係がないと伝わらない。だからそれをシステマティックに「教える」というのは、そもそも無理がある。しかしもちろん学校は必要なので、この「無理がある」ということを最初から承知の上で進めるべきなのである。具体的にはどうすべきかというと、システムを改革するのではなくて、教員にもっと自由を与えるということである。自由というのは、教え方や時間の余裕だけではなく、給料も上げるということである。
国語の話に戻ると、ひねくり回したような設問の解法を教えるよりも、子供たちにはまず良い文章のお手本をたくさん読み聴かせるのがいい。その時に大事なことは、教える側の教師もそれを良いなあと思いながら読み聴かせることである。また、たくさん作文させたものをこれは良い、これはダメと返してやるのがいい。最初のうちは、理由なんて説明しなくていいと思う。文章とは頭で考えて理解したり書いたりするものではなく、楽器の演奏やスポーツや武道の基本と同じで、合理的で美しい動きを理屈なしで出来るようにすることが大事だからだ。書き手の意図をパラフレーズするみたいな訓練は、そういうことを散々やった後なら効果があるかもしれない。
そうしたことは、教える側にある程度自由な裁量が任されているからこそ、できることである。だから、学校教育自体はあくまで「悪役」で構わないのである。もちろん、みずから悪役を体現するようなダメ教師もいるだろうが、なかには「教科書にはこう書いてあるけど、実はね‥‥」と教える先生もいて、子供たちは成長できるのである。あるいは悪役しかいない学校もあるかもしれないが、その時には先輩とか、塾や家庭教師の先生の中に、読み書きの本当の面白さを教えてくれる人がいるかもしれない。学校は必要だが、学校そのものに多くを期待しすぎるから間違ってしまうのである。本当の学びは学校が許容するある種の「隙間」のような場所の中にしかないからである。
今のような教育では子供たちの将来が心配だ、と嘆く人が多いけれど、僕はそれもあんまり思わない。子供たちは心も頭も柔軟なので、確かに劣悪な環境に置かれるのは可哀想だけれど、環境が変わればすぐに自分も変わることができる。それよりも心配なのは大人である。大人は心も頭も硬いので、制度と現実の区別ができない。「隙間」の大切さが見えなくなっているので、制度を改革すれば現実は良くなると信じている。いや、信じているならまだ救いがあるが、そもそも現実というものがもはや全く知覚できない状態まで精神が退化している。そのこと自体は本人の自業自得でどうでもいいけど、そんな大人たちが権力を握って教育制度を弄り回すので、現場の教員たちや子供たちが大変な被害に遭う。そして国語そのものが劣化してゆくことが深刻なのである。