昨年末は、IAMAS卒業生の小野寺くんと早川くんの「生きづらジオ」に出演して、大晦日に配信されたということなのだが、その後一ヶ月経ち、どうなってるのかなと思って、あらためて聴いてみた。自分がネットで、しかも2時間半も喋っている映像を観るのは初めてであり、何というか、自分が違う人みたいにみえた。
この番組では、「生きづらジオ」は吉岡さんからはどう見えているのですか、という質問がまず初めに来た。それに対してぼくは「冒頭で病気を宣言するのは云々‥‥」とか言っているのだけど、あらためてよく考えてみたら、早川君の「メンヘラ、バツイチ、ひきこもり、無職」というのは、厳密に言うと、そのどれひとつとして「病気」の宣言ではないですね。
少なくとも「バツイチ」と「無職」はまったく病名ではない。「メンヘラ」も特定の何かを指す病名ではないし、「ひきこもり」もたぶん病名とはいえないのではいか。つまり、これらはどれも特定の病気の名前ではなく、早川くんは別に病気の宣言など、そもそも最初からしていなかったのだっだ。
それではこれらは何の宣言なのかと考えてみると、強いて言うなら、ライフスタイルの表明、自分の生き方の選択についての宣言ではないかと思う。
昔だったら、ぼくのような年長者はそういうのを聞くと、お前たちそんな小難しいこと言ってないで、とにかく結婚して子供つくりなさい、何なら誰か見つけて世話してあげるから、みたいなことを言ってたんだろうな、と思う。今は、誰もそんなことはしない。自分の教え子とはいえ、ライフスタイルは個々人の自由なのだから、干渉すべきできないと。
たしかに、そんなことに干渉しないでいた方が、お節介だと思われることもないし、責任を取らなくていいから、お互いに楽であるには違いない。でもそれでは、近所や、村や町や、さらには国といった共同体は、どんどん壊れていくだけなのではないのだろうか。
いや、嫁の世話するというようなことはともかく、マンションの隣人にエレベータで会ってもお天気の挨拶もしない、新幹線で3時間隣に座る人に「お仕事ですか?」みたいな愛想も言わない、階段で重そうな荷物を持つ女の人に「運びましょうか」と言ったら変な人だと思われるんじゃないかと遠慮して声もかけられない、というような世の中になってしまった。
生きづらさというのは、こうした状況の全体から生まれてくるものだ。今でも日本の人たちのほとんどは、本当は朝会えば互いに声かけ合うような世の中の方が好きなのだと思う。それができなくなったのは基本的には社会や国のあり方に起因するものであり、自然な成り行きなどではなく、政治的・経済的な原因によるものだと思う。