「順番を決める」というこのテーマとは直接関係がないかもしれないけど、このところ痛感していることなので書いておきたい。それは、コロナをきっかけに世界中に広がっている「オンラインへの目覚め」とでも言うべき現象についての、何とも言いようのない違和感、あるいは自分だけが取り残されているのか?という疑いである。(本当に自分だけが取り残されているのなら、別にかまわない。新しい人類で新しい文明を築いてもらえばいい。でもそういうことじゃないだろ、と思うのでこれを書いている)。
インターネットが普及して、やろうと思えばいろんなことを「オンライン」で出来る条件は、すでに少し前から整っていた。ただ、これまで長きにわたる「オフライン」文化の慣習が邪魔をして、なかなか改革が進まなかったのが、コロナのおかげで、「こんなことのためにわざわざ集まらなくてもよかったではないか!」という「真理」が白日のもとに明らかになった。まあ、早く言えばそんなような実感を表明する人が多いということである。これを「オンラインの目覚め」と仮に呼んでおく。
確かに、授業とか会議とか、オンラインでも出来るではないか、と言われれば、それはできるのである。けれども、それはまさに「できる」ということだけであって、それだけだ。何を言ってるのか分からないだろうか。
つまり、人生における行為や経験は、それらが何かの「機能を果たす」とか「意味を持つ」という観点からみるならば、オフラインでもオンラインでもそれほど大きな違いはないのである。ならば、移動時間や経費など様々なコストが節約できるオンラインの方がいいに決まっている。もちろん対面状況でしか生じえない、その場でしか味わえない雰囲気とか色々周辺的なことはあるだろうけれど、そんなことのために莫大な時間と費用を無駄にするのか? と詰め寄られると、何とも抗弁のしようがない。
だが、今のコロナと「オンラインの目覚め」状況によって、ぼくがハッキリ分かったことは、自分にとって、この世界における行為や経験の重要性は、それらが持つ「機能」や「意味」ではなく、現場の雰囲気とか、それらの周辺にあるいろんな事柄の中にしかなかったのだ、ということである。つまらない会議でも、つまらないなあと文句を言いながら、時間やお金をかけて現地に行って人と雑談したりできるから楽しかった。そうした「無駄」が省かれて機能だけになったオンライン会議は、「つまらなさ」それ自体が容赦なくそこにあって、ようするにもう、マジつまらない。
言い換えれば、ぼくにとって生の本質は「不要不急」の中にしかないということなのだろう。だからそれが否定されている今の状況は、ぼくのような人にとっては「生きるな」と言われてるのと同じことなのである。