前回の記事は、別に個人的な思い出を書きたかったわけではなく、今私たちが置かれている状況について考えたかったのだけれど、自分の個人的な記憶も確かにメッシーであることには変わりなく、つい母の最期のこととかを思い出したので書いてしまった。
いかなる時代でも人間が生きる状況は基本的に「散らかっている」ものであり、それは当たり前のことだと思う。にもかかわらず、その状況を率直に言いにくくなっているのは、現代特有の脆弱さかもしれない。人生が「散らかっている」こと、したがって「生きづらい」という当たり前のことを、「恥ずかしい」と思うように、私たちはいつの頃からか、条件づけられてしまった。互いに警戒しあい、自分の人生は決して「散らかって」なんかいないと、去勢を張らなければならなくなった。
生きることが原理的に「生きづらい」ことを、いかに言わないですませるか、そのための浅知恵を身につけている人たちが、現代ではもてはやされるのである。本当に、ひどい歴史的醜態である。マスメディアもネットも、ようするに、互いにポジティブなことを言い合う競争ではないのだろうか。「メッシー」じゃなく「セクシー」と言えばウケたり。けれどもその種のことを平気で言える口は、本当は悪臭にまみれている。そのことを直感的に見抜く力が文化の基礎であって、それが共同体や国家の強さを精神的に支えるものなのである。
生きる状況が基本的に「散らかっている」と認識するなら、順番を決めることが決定的に大切であることは、自明だろう。生きる時間は限られていて、使えるリソースも有限なのである。明日死ぬことが分かっている人が、老後のために貯金するだろうか。しかし明日ではないにしても、私たちは早晩死ぬのであるから、状況は誰にとっても基本的に同じである。だからこそとりあえず何をするのか、決めなければならない。それが順番を決めるということなのである。
それを決めるには、客観的に頼りになる基準も正解も存在しない。「専門家」に聞いても埒があかない。人任せにせず、自分で決めないといけないということだ。もちろん迷うことも自由だけれど、いつまでも迷い続けて迷いに安住することは、身を滅ぼす。個人の生も、国家も文明も、人類そのものもやがては消滅するのであり、そのことは絶望ではなくて希望なのである。迷い続けて死ぬくらいなら、とりあえず決めた方がマシである。決めれば、そこから生が始まる。迷い続けるのは、要するに人生を始めたくないという選択なのである。