これはポンポコ先生じゃなく「中の人」? が書いています。どこが違うのだと言われると困るのだけど。
すでにいくつかのメディアで報道されているように、日本学術会議が推薦した第25期の新たな会員のうち、人文・社会系35名のうち6名が、内閣総理大臣によって任命されなかったという事態が起こりました。
ぼくは新会員のひとりであり、昨日の総会に出席しました。前会長の山極寿一さんが退任挨拶の冒頭で、経緯について簡単に説明しました。新会員の名簿は何ヶ月も前から内閣府に提出されていたのに、一部を任命しない事実が知らされたのはわずか2日前だったとのことです。つまりこの決定について現会員や執行部に抗議する時間的余裕を与えない、ギリギリのタイミングで知らされたということです。
こうしたことは、日本学術会議の発足以来初めてのことです。過去においても政府と学術会議が対立したことはありましたが、任命者である総理大臣が会員の人事に介入することはありませんでした(✴︎ 本記事公開後、2年前にも定年の補充人事において官邸による干渉があったことが明らかにされた)。
任命しなかった理由についての説明は、現在もありません。名簿から外された6名は、多かれ少なかれ政権や政策について批判的な立場を取ってきた人たちなので、そのためではないかという憶測が当然生じます。しかしぼくの知るだけでも、政権に批判的な立場をとる人は任命された会員の中にもおり、なぜこの6名だけが排除されたのかというハッキリした理由は分かりません。したがってとりあえずは、理由を開示せよと要求してゆくことが必要です。
でも、たぶん理由は答えないと思う。国会で追及しても、制度論のレベルではぐらかすのではないかな。なぜならこの挙動には、ハッキリと説明できる理由なんてそもそもないからです。ではなぜ、こんな前代未聞のことをしたのか。それは一言でいうと、ビビらせるためです。学者ども(特に人文社会系の)なんて、政権は何とも思っていないんだゾ!という脅しですね。学問の自由の侵害だ、憲法違反だと大騒ぎになることはもちろん予測していて、それでも最終的には勝てると踏んだのですね。
昨日の総会開催前に『しんぶん赤旗』の記者が来ていて、ぼくも意見を求められました。「恐ろしいことではないですか!」と言うので「たしかにそうですが、怖がらせることがまさに政権の意図なのだから、あんまり怖い怖いと大騒ぎしたら思うツボなので、理由の開示をなるべくたくさんの人数で、冷静に追求し続けるべきです」と答えました。
昨年の「あいちトリエンナーレ」問題の時もそうですが、政権が文化や学術に何らかの介入をして来ると、私たちは「権力が芸術や学問を意のままにコントロールしようとしている」と感じ、恐怖を覚えます。しかし、ここで冷静に考えるべきことがあると思います。それは、政権は文化や学術の世界まで支配することで、日本をいったいどんな国にしようと目論んでいるのだろうか? という問いです。
こんなことが進んでいったら戦前の軍国主義の復活だ! と騒ぐ人がいます。気持ちは分かるのですが、ぼくはそうではないと思うのです。もしも政権が、太平洋戦争以前の大日本帝国の国体を取り戻そうとして、文化や学術にまで規制をかけてくるのだとすれば、それは恐ろしいとは言え理解可能なことであり、闘争も可能です。けれども、そうではないのです。
日本に限ったことではありませんが、現代世界の政治的指導者の多くは、あるべき国家についての明確なビジョンを持っていません。興味がないのです。彼らに興味があるのは自己の政権の維持です。そのためには何でもします。だから保守だとか左翼だとか、イデオロギー的な装いは全部ダミーであって、そのレベルでいくら攻撃しても彼らは無傷です。理念を持たないのですからね。彼らは「悪人」ですらありません。国民を貧困に陥れようとか、文化を思うままに支配しようとか思っていない。そんなこと、どうでもいいのですね。彼らの政策を説明するためにしばしば参照される「新自由主義」という言葉は、「主義」とあるからまるで一つの政治理念のように聞こえますが、実は「理念の徹底的排除」という意味なんです。理念が消滅した後に残るのは、目的合理的な行動の最適化だけです。
昨日の次期アメリカ大統領候補のテレビ討論を観て、どんな感想を持ちましたか? アメリカ市民じゃなくても、不快感を持たれた方が多いと思います。討論の内容(はほとんどなかったが)以前に、あれを観てイヤーな気持ちがするのは、双方が「テレビ討論に勝つ」ための行動しかしていないからです。そんなこと言うけど、理念を語っているかのように見えた過去の大統領だって、本当は理念なんてタテマエだったのではないか? それはそうです。しかし、政治にタテマエは必要なのです。タテマエとしての理念を語る政治家のいる世界の方が、タテマエなんて不要だからホンネだけで動く政治家しかいない世界よりは、まだマシだということです。
現代の世界を分断しているのは、イデオロギーの対立ではありません。イデオロギーと、イデオロギーの欠如との対立です。どんな形であれ、世界や国家がこうなればいいのにという何らかのビジョンを持つ人々と、そんなものに興味はなく、もっぱら自己の利益と権力維持のために最適な行動を取る人々との対立です。後者はある意味「頭のいい」人たちであり、彼らは自分たちの利益のために、イデオロギー的対立を利用しようとすらします。つまり保守と左翼とか、そのそれぞれの内部、また文化や学術の内部にも存在する様々な立場の違いを煽って、それらの連帯を阻み、弱体化させようとしているのです。
今回の問題も、そうした戦略の一つだとぼくは理解しています。だからあまり騒ぎすぎず、淡々としかし粘り強く理由の開示を要求し続けることが大切だと思います。権力に抵抗する方法は、支持を失わせることです。支持を失いそうになったら、政治家は慌てて有権者の言うことを聞くようになります。マスコミを抑えられているから絶望的だ、という人がいますが、マスコミだって一枚岩ではなく、ぼくの知っている若い世代の記者には、ここに書いているようなことをちゃんと理解している明敏な人たちも増えています。内閣府の官僚の人たちもそうです。彼らこそ人事を握られているので、何も言えないだけです。
まあ、頭で考えると絶望したくなるのは無理もないのですが、それでも行動においては楽観的であるしかないと思っています。