◉ れいわTANUKI問答ポンポコ 011◉
【Q】人間がもはや存在しないだろう遠い未来に、宇宙の星々が激しく輝くという記事を読みました。そういう終末の美しさは何のためにあるのでしょうか。人間のためでしょうか、生物のためでしょうか、それとも美は見られなくても価値はあるのでしょうか。そもそも美は生物による認知がなくても、存在すると言いうるのでしょうか? 感性論や性淘汰の理論からは、「否」ということになるかもしれませんが、しかしそうであっても世界は美しいわけです。それにはどんな意味があるとお考えですか?
【A】この記事のことですね。
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/082100484/?rss&utm_source=dlvr.it&utm_medium=facebook
宇宙がだんだん膨張していってエネルギーが拡散し、恒星の最後の姿である白色矮星も冷え切って黒色矮星となり、そのまま宇宙は死ぬのだと思われていたのが、実は量子トンネル効果によっ黒色矮星の中でも核融合がゆっくり進行していて、それが10の1100乗年の後に超新星となって大爆発を起こし、その光が最後の宇宙を満たすというのです。線香花火から激しい閃光がだんだん出なくなって火玉だけになり、これで終わりかなと思っていたら最後に美しい松葉と散り菊になって燃え尽きる、という感じかな。あまりにもスケールの違う喩えですが(笑)。
美はそれを感受する何らかの主体(人間、動物、AI?)がいなくても存在しているのか? これは哲学の最重要問題のひとつです。現代の哲学は専門分化しているので、その「業界」の言葉遣いに慣れない人が哲学の本を読んでもピンと来ないし、哲学研究者本人も自分が何を考えているのか無自覚な場合が多いのですが、結局はこの問題も考えているのです。古典哲学なら、この問題をもっとストレートに表現します。
美が「イデア」であれば、人間の居る居ないに関係なく存在します。イデアは、端的に認識の外にあるからです。プラトン哲学ではイデアは天上界にあるので、この世で何が起ころうとも、美そのものはビクともしません。人間がこの世で何かを見ると、魂がたまたま天上界の美を思い出すことがあり、その時に人は「美しい」と感じるのです。だから、もしも人間が10の1100乗年後の夜空を見上げて超新星の光を見たら「美しい」と感じるかもしれないが、その感覚の根拠になっている美そのものは、この世の出来事に関係なく、時間を超越して存在しています。
しかしイデア論の場合は、美は事物の中にあるわけではないので、たしかに美は見られなくても価値はあり、生物による認知がなくても存在することになりますが、その反面、感じる主体がいないところで何らかの事物が「美しい」という事態もありえないことになります。「何かが美しい」というのは、魂がイデアを想起する経験に基づいているので、もはや誰も観る者はいないであろう宇宙最後の星の大爆発が、それでも「美しい」ということは言えなくなります。
一方近代哲学の主流は認識論なので、美は人間の知覚や認識から生み出される経験です。したがって、認識主体がいなければ美は存在しません。ただ、美は個々の認識主体の中で勝手気ままに生じる経験ではなくて、何らかの普遍的な性質を持っており、哲学的に探究する価値があるとは考えられてきました(そうでないと美学なんて成立しませんからね)。しかしこの普遍性は、人間性、人間精神とか、せいぜい知性一般とか、多少とも主体性に根拠を持つもので、宇宙それ自体が美しいというようなことを主張する根拠にはなりませんでした。
もちろん哲学史は単純ではなく、近代においてもこうした主流派の認識論に反抗する形で、様々な存在論的主張も行われてはきましたが、やはり自然科学が支配的な影響力を持っているので、マイノリティの位置に置かれてきました。現代の私たちの世界観もその影響下にあります。「人間がいなくても宇宙は美しいか?」という質問を、専門的哲学者ではなくそのへんの中学生に聞いても、お勉強のできる子は「人間がいなかったら、美しいも何もないでしょ」と答えます。中には「いや、宇宙そのものが美しいんだよ」と答える子もいるかもしれませんが、そういう子は「ふーん、ロマンチストだね」と言われるでしょう。「ロマンチスト」というのは褒め言葉ではなく、マイノリティという意味です。
さて、ここまでの議論を踏まえた上で、このご質問の中心的な問題を考えようと思います。それは「しかしそうであっても世界は美しい。それにはどんな意味があるか?」という問題です。え、それでは元に戻ってるのでは? と思う人もいるかもしれませんが、実はそうではありません。上で参照してきた哲学の伝統は、学校で教わるような解釈に基づいた西洋哲学です。けれども西洋哲学だけが哲学ではないし、また西洋哲学それ自体も、実は大学の哲学史で習うようなことばかり考えてきたわけではないのです。西洋はよく見ると結構、非西洋的です。ということは西洋から見た非西洋、オリエントも、そんなに単純じゃないということでもあります。
この問題は説明し始めるとキリがないので、ここでは質問に即したポイントだけを指摘します。「宇宙の美は何のためにあるのか?」という問いは、美を感じる存在の有無を問題にしているわけです。しかし美を感じる存在とは何でしょう? 人類でしょうか?(しかし奴隷制の時代に多くの白人は、黒人には美など分からない思っていました。)生物でしょうか? (脳の発達した動物? 脊椎動物? どこに線を引くのか?)サイボーグ? 人工知能は? このように疑い出すとキリがありません。そしてどこに境界線を引こうとも、それは非常に人為的で無理があるという印象を拭えません。
この困難を打開する方法のひとつは、単なる対象としての事物とそこに美を感得する主体という対立を放棄することです。質問者の「しかしそうであっても世界は美しい」という言葉は、そうした可能性を示唆するものだと思います。言ってみれば、宇宙を美しいと感じているのは、宇宙それ自身なのです。そして私たち人間が宇宙を見て美しいと感じるのは、私たちが宇宙の一部だからです。こういう主張をするとすぐ「汎心論」だと言われますが、汎心論というのは、人間の心のモデルを生物ですらない事物に適用してしまうので「石がどうやって世界を感じるというのか?」と疑われ、とてもエキゾチックな異説だとみなされるわけです。
その意味で、汎心論はその主張に反してなおも人間中心主義です。宇宙の美は最終的には宇宙自身のためにあり、それは宇宙自身が「心」を持つからなのですが、この「心」は人間の心理や認識とは似ても似つかないものであり、擬人化では決して理解できない事柄です。このことを、自然科学や現代人の世界観がなるべく偏見なしに理解できるような言い方を探究・開拓してゆくことが、現代哲学の重要な課題ではないかと思っているのです。