以下の原稿は、2020年8月9日、ロームシアター京都の「劇場の学校」というプログラムの一環として行ったレクチャーのために作成した原稿です。13歳から18歳までの年齢で、このプログラムに参加して演劇、ダンス、メディアパフォーマンスのワークショップに参加している子供たちに向かって話しました。講義では必ずしもこの原稿通りのことを話したわけではないが、希望者には配布しました。
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時間がもったいないから、自己紹介とかは省略。
これから「ティーンズのための美学」というお話をしますが、これは決して、学問の専門的な話を子供向きに簡単にした、というようなものではありません。これからの話は大人ならもっとよく分かるかというと、そうでもない。むしろ逆ですね。たぶん知識がない、若い人たちの方が分かるチャンスは多いです。なぜなら、知識がないということは先入観もないからです。
おそらく「美学」という言葉はどこかで聞いたことがあると思います。ふつう「価値観」というような意味で使われますね。「そんなこと、オレの美学に反する」とか。ちょっとカッコつけてるような言葉ですね。どちらかというと、男が言いたがる言葉です。男の方が一般にカッコつけたがるから。
でもこれからお話しする「美学」とはそれじゃありません。学問の名前です。どんな学問かというと、「哲学」の一分野です。分野というより、「哲学」の一つの「モード」です。つまりゲームとかで、難易度を変えたり、雰囲気をシリアスにしたりお笑いにしたり、自分はプレイしないでただ眺めているとか、いろいろ「モード」を変更できますよね。それと同じように、「美学」は「哲学」を実行する「モード」のひとつなのです。
それでは「哲学」とは何か? 他の学問とどう違うのか? 学問というのは、世界をその特定の側面から研究するものです。物理学は世界を物理現象という側面から研究します。生物学は生命現象から、経済学は経済活動から世界を見ます。世界は「全体」ですが、学問が焦点を合わせる側面はそのある「部分」です。
それに対して哲学は、世界を「全体」として考える研究です。と言っても、人は同時に物理学者であったり生物学者であったり経済学者であったりすることは、なかなかできません。レオナルド・ダ・ヴィンチは万能の天才と言われますが、それは当時は科学、芸術、テクノロジーの間に区別がなかったからです。全てが繋がった「自然の研究」でした。
けれども現代の専門化した学問の環境では、同じことはできません。だから哲学は何を手掛かりに「全体」を考えるかというと、自分自身です。自分が生きているという経験です。
哲学は基本的に、観測や実験のための道具も使いません。それどころか、哲学には予備知識も要りません。むしろ、予備知識は邪魔になります。
人間はこの世の中に生きていると、別に学校で勉強しなくても、いろんなことを見聞きして予備知識がついてしまいます。でもそれらは大抵間違っています。なぜかというと、ただ生きているだけで身につく知識というのは、自分が置かれている特定の時代や社会でうまくやっていくために役立つもの(つまり「常識」)であって、真理とは関係がないからです。
真理にアプローチするには、「常識」を疑う必要があります。それも、根本のところから。哲学は自明のもの、当たり前のことを疑うことから始まります。
たとえば、哲学とは世界を全体として「考える」ことだと言いましたが、この「考える」とはそもそも何か? そんなの分かりきってると思うでしょう。誰だって何か「考えて」いるし。でも、そうでしょうか? コロナは怖いってみんな言うからマスクしよう、イソジンは効くそうだから売り切れる前に買っちゃおう。これ「考えて」ますか?
美学の話なので美術作品の例で見てみましょう。これはロダン(François Auguste René Rodin, 1840 - 1917)の作品です。ふつう「考える人(Le penseur)」と呼ばれています。いかにも「考えて」るみたいに見えますか? いったい、何考えてるのでしょうね。考えるってこういうイメージかもしれないが、ぼくはこんな格好して考えたことはないし、そうしている哲学者なんて見たことありません。
実は「考える人」というのは、作者がつけたタイトルじゃないんです。ロダン自身は最初、これを「詩人(Le poète)」と呼んでいました。これは「地獄の門」という作品の一部として構想されたのものです。「地獄の門」の元ネタは14世紀の初めにイタリアで書かれた『神曲』(La Divina Commedia)ですから、その作者であるダンテ(Dante Alighieri, 1265 - 1321)のことかもしれません。
ちなみに、古い美術作品には大抵タイトルはありません。私たちが「タイトル」だと思ってるのは、他の作品と区別するために後の時代の人たちがとりあえず付けた呼び名です。だからタイトルを手掛かりに作品の意味を解釈すると間違います。(ただし、時代が新しくなると作者自身が意味を込めて自作を名付けるようになるので、タイトルも作品の一部みたいになっていきます。)
とにかく「考える人」みたいなイメージによって「考える」ことを理解するのは見当違いです。マンガだと、頭の上にクエスチョンマークを付けることで「考えてる」という意味になりますが、このイメージも助けになりません。まあ、クイズを解く時は、そんな感じかもしれませんが、クイズを解くことと、哲学的に考えることは何の関係もないのです。
哲学的に「考える」時、そもそも〈頭〉はあんまり使いません。〈頭〉は、「クイズ」を解く時にはフル回転します。ここで〈頭〉と言っているのは、脳全体のことではなく、「前頭前野」と呼ばれている部分のことです。よく人間の脳はコンピュータに例えられますが、人間の脳でコンピュータにちょっと似てるのは、この前頭前野だけです。
(しかも脳のこの部分は、切り離しても命に別状はありません。実際、そういう手術が行われた歴史があります。ポルトガルのエガス・モニスというお医者さんが、精神病の治療にために前頭葉と視床下部との連結を切り離しました。第二次世界大戦後、戦争で心の傷を負ったアメリカ人の兵士がたくさん帰国し、その治療法として実施されました。)
話を戻しましょう。世界を全体として考えることは、クイズを解くことではありません。ここで「クイズ」と言っているのは、いわゆるテレビのクイズ番組でやっているようなことだけではありません。あらかじめ「正解」が用意されている全ての問題とその解決のことです。その意味では、皆さんが学校でやっている勉強の大半も、広い意味でのクイズです。また科学の研究も、人間は「正解」を知らないが、神様は知っている、あるいは自然界のどこかに正解がある、と信じれば、やはり広い意味でのクイズなのです。クイズを解くには頭が良くないといけませんね。
でも世界を全体として「考える」哲学の問いに対しては、特に頭が良くある必要はありません。哲学は誰にも開かれています。開かれているというのは、誰でも分かるという意味ではありませんが、頭が良くても有利にはならないよ、という意味です。
さて「美学」とは、哲学の一つの「モード」だと言いましたが、いったいどんな「モード」でしょう? この字面からすれば、「美」の「学」ですから、まるで「美とは何か?」という問いを考えることであるように、思えるかもしれません。
しかしここでも、基本的なことを疑ってみましょう。それは、「◯◯とは何か?」という問いの、問いそのものというか、問いのそもそもの形のことです。私たちはよく、途方に暮れた時とかに、「そもそも◯◯って何なんだろう?」と問いますね。その意味では哲学とは「途方に暮れること」です。途方に暮れることが得意な人は哲学者になれます。
この「◯◯」には、いろんなものが入ります。哲学的に言うと、この「◯◯とは何か?」というのは、〈本質を問う〉ということなのです。
〈本質/エッセンス〉とは何か? それは、「そのものがそのものであるそれ」という意味です。「それがないとそのものではなくなる何か」です。たとえば薔薇の香りだけを抽出した香水は、薔薇の香りの「エッセンス」です。薔薇の色や形は、「薔薇の香り」が「薔薇の香り」であるためには必要ではないからです。
なぜ本質に向かう問いが生まれるかというと、私たちが考える時に言葉を使っているからです。つまり〈本質〉と言葉とは「カップル」です。つまり言葉で思考すると、私たちはつい「‥‥とは何か?」と問うことに誘導されてしまいます。
でも、現実の多くのカップルがそうであるように、〈本質〉と〈言葉〉とは、絶対に裏切らないラブラブのカップルではありません。いや、ラブラブの時もあるかもしれないが、言葉というのは浮気をします。つまり言葉は、〈本質〉や〈真理〉から逸脱して、ウソや虚構に惹かれていく傾向も持っています。だからこそ、文学や演劇など、言葉を使った芸術が可能なのです。言葉が浮気っぽいのは、言葉を用いた芸術が可能となる必要条件だと言えます。
再び話を戻します。言葉が浮気をせず〈本質〉にクソ真面目に付き合っている限りにおいて、「美とは何か?」は重大な問題のように見えますね。でも実のところ、「美学」はこの問いにあんまり本気で興味を持っていません。「美学」は「美の学」ではないのです。美学とは「美とは何か?」をクソ真面目に考える哲学のモードではないということです。
実はこれは、言葉の成り立ちに関係があります。「美学」は日本語ですが、江戸時代にはありません。室町時代にも、平安時代にもありません。なぜなら「美学」とは、明治時代以降に入ってきた、ヨーロッパの言語を翻訳するために造られた言葉だからです。その元の言葉は、英語で言うならAESTHETICSです。その源は、ギリシア語の「 アイステシス(αἴσθησις)」という概念です。
ここには、「美」という意味は入っていません。「アイステシス」とは、直接「感じる」能力、「直感」というような意味です。美学というのは、(人間であれ何であれ)「直接感じる能力」に焦点を合わせて考える、哲学の「モード」だと言うことができます。
「直接」とはどういうことかと言うと、「知識の助けなしに」ということです。言い換えると、自分が今感じているものが「何であるのか」という知識とは関係なしに知覚するということです。例えば、レストランで鶏肉の料理を食べて、これは放し飼いで育てた名古屋コーチンのお肉ですと言われ、「やっぱり美味しい」と満足するとします。その後で、実はそのレストランは安いブロイラーの鶏肉を高級な鶏肉だとウソをついて(「偽装」と呼ばれます)料理に出していたことがバレたとします。その時、騙された客は怒るだろうし、レストランは営業停止になるかもしれませんが、では「美味しい」と感じた感覚そのものはどうなるでしょう? 「美味しいと思ったけどやっぱり不味かった」となるのでしょうか? だとしたら、それは直感ではありません。なぜならその感覚は、「これは高級な鶏肉で美味しいはずだ」という知識に助けられて生じていたことになるからです。
こういう例は他にもたくさんあるので、探してみてください。美術や音楽について、人はよく「知識や言葉なしに、感じれば誰でも分かる」などと言いたがりますが、ルーブル美術館に行って、モナリザが世界の名画であるという知識なしにその絵を見ることはできるでしょうか? 演奏会に行ってそれがベートーベンの交響曲第9番であるという知識なしに、演奏を聴くことができるでしょうか?
美学の研究対象であるこの「感じる」という能力は、必ずしも人間、人類に限られません。むしろ、動物の方が感覚の世界は豊かなのではないかと想像されます。(とりわけ野生状態で生きている動物はそうです。ペットや家畜は人間の悪影響を受けて感覚は鈍っていきます。)だから、「感じる」能力を鍛えるということは、ある意味で、人間をちょっと休んで動物に近づいてみる、ということだと言えるかもしれません。
進化の頂点に立つ「万物の霊長」である人間が、わざわざ動物に戻るなんて、と思う人がいるかもしれませんが、それは思い上がりです。「進化」とは単純なものが複雑になったり、より高度になったりすることのように多くの人は考えていますが、これは常識が完全に間違っている例の一つです。「進化」というのは、複雑さや高度化に関係ありません。進化とは、バリエーションが生まれ、それが環境によって選択されるというプロセスのことです。だから、微生物も、動物も、人間も、今地上に生きているものは全て、進化の頂点にいるのです。コロナウィルスもそうです。
「感じる」能力を基準にして宇宙を眺めると、人間はあんまり威張れません。生物ではない存在(石や空気、分子や惑星、等々)にも「感じる」ことは可能だろうか? などという議論も哲学では行われます(汎心論)が、生物界だけをとってみても、文明化した人間は「感じる」という能力において大きな障害を持っています。感じる能力においては、生物界の中で人類は「障害者」なのです。文明とは、その障害をカバーしてくれる車椅子のようなものです。芸術というのは、文明がガチガチに凝り固まってしまわないように、時々そこに自然のエネルギーを注入するというようなことです。
【勉強のヒント】
かなり抽象的な話だったと思うので、最後はサービスのためにもう少し身近なアドバイスをします。勉強することについてのイメージの持ち方です。
① まず勉強というのは頭だけではなく、身体全体でするものです。なぜなら身体の方が頭よりずっと「頭がいい」からです。私たちは頭(意識、自己)で自分の身体をコントロールしていると思うかもしれませんが、それは錯覚です。意識は身体の働きのごく一部を、とても大雑把にモニタしているだけです。だから勉強も、もっと身体を信じ、身体に任せる方が効率がいいのです。
より具体的に言うと、努力したり頑張ったりしても長続きしません。努力すると、人間はアホなので見返りを求めますが、勉強の成果はそんなにすぐには現れませんから、ガッカリしてやめてしまいます。努力や根性よりも、楽にできる習慣を付けることの方がはるかに大事です。習慣というのは身体の思考なのです。
② 知識とは何か? それは、ボルダリングにおける「ホールド」みたいなものです。知識を習得するというのは、体積の決まっている容器に知識を注入することではありません。それは間違ったイメージです。人間が吸収できる知識の量には実質的に限りがないので、パソコンやスマホ等と違って何ギガだとか容量を気にする必要はありません。それよりも、確実に掴むことのできる、足場になる「ホールド」を増やすことの方が大事です。
たとえば、明治維新が1868年に起こったというのは、単なる「クイズの答え」的な知識です。それだけではとても頼りないホールドで、安心して身を任せることができません。でも、明治維新がなぜ起こったのか、どんな社会的混乱をもたらしたのか、当時の人々はそれをどう受け取っていたのか、今の私たちの社会や生活とどう関係するのか、等々を知ると、それはしっかりしたホールドになっていきます。
そういう手かがり、足がかりになるホールドが増えていけばいくほど、私たちは安心して登ることができます。ボルダリングは競技ですからわざとホールドの数を制限して能力を競いますが、知識という壁にはいくらでもホールドを増やすことができ、数が増えれば登るのはどんどん楽になって自由に動くことができるようになります。つまり様々な知識が増えるほど、新しい知識を吸収するのも楽になり、考えることも自由になるのです。
語学でいうと、英語だけを勉強するのと、英語とフランス語を勉強するのとでは、一見後者の方が、労力は二倍必要になるように思えますが、実はその反対で、英語もフランス語も互いの知識のホールドとして機能していくので、一つの外国語を勉強するより、複数勉強した方が最終的には楽になっていき、さらには母語(日本語)の能力も劇的に上がっていきます。
③ 勉強の進展は、トーストを焼くような感じです。オーブンに入れて火を付けても、しばらくは変化がありません。食パンは真っ白なままです。本当はその表面から水分が蒸発しているのですが、それは見えません。だから、何度か取り出してみても、何だ、まだ全然焼けてないや、ということになります。しかしあるポイントまで来ると、うっすらとキツネ色に焼けてきて、その後はあっという間に焼きあがります。
勉強の進展もそういうプロセスを辿ります。最初の頃はその成果は全く見えません。たいていの人はそこで挫折するので、成果が現れる時まで辿り着けません。だから、①で言ったように、頑張ってはいけないのです。成果についてはむしろ「あきらめる」才能が大事です。「力を入れる」のではなく「力を抜く」ということです。いくらやってもどうせモノにはならないけど、とりあえず今日もちょっとやっておくか、という感じです。すると気持ちが楽になって、不思議に続けることができます。続ければ、やがて変化が現れる特異点(シンギュラリティ)が必ずやってきます。