◉ れいわTANUKI問答ポンポコ 002 ◉
【Q1】Zoomやオンライン動画での打ち合わせや飲み会が肌に合いません。終了したときに、Zoomで振る舞っていた自分から自宅で1人の自分への切り替えが難しいです。どうしたらいいでしょうか。
【A1】誰でも、家でひとりでいる自分と、学校や会社やその他いろんな社会の中での自分とは、違うものだと感じています。一人暮らしでなければ家の中でも、自分の部屋にいる時の自分と、家族と一緒にいる時の自分は違うでしょう。人間は同じだけれど、人に見せる顔が違うのです。こうした「見せる顔」のことを「ペルソナ persona」と言います。英語の person のもとになったラテン語です。ペルソナとは「仮面」のことです。つまり私たちは、様々な仮面をかぶって世間と交わっているということです。
外に出て人と会うためには、いろいろ準備があり時間もかかります。それなりに身なりを整えて、持ち物を確認しドアを閉めて、自転車や車、あるいは公共交通機関で、目的地に向かわねばなりません。そういうことをしている間に、それぞれの場合に必要なペルソナが、自然に作られていくのです。ちょうど役者が楽屋で衣装を着て舞台化粧をしていくうちに、だんだんと芝居の「役」というペルソナになってゆくのと同じです。
けれども舞台ではなく映画やテレビ番組の撮影の時には、役者やタレントは、特定のペルソナと役者としての自分とを、瞬時に切り替える必要に迫られます。「カット!」と言われる度に、それまで成り切っていた「役」の演技について、「今のどうでした?」と突き放して見る、役者としての自分に戻らないといけません。オンラインのミーティングをする人は、そういう役者のような切り替えを要求されているのです。
では、役者はなぜそういう切り替えができるのでしょう? それは、「役」から自分に戻ってもそこには監督やカメラマンやいろんなスタッフがいて、一人ではないからです。つまり、あるペルソナとそれを演じている自分の両方を知っている人が周りにいるから、平気で二つの人格の間を行き来することができるのですね。
それに対してオンラインミーティングの場合は、それが終わると突然、自分一人になってしまいます。ペルソナから自分に戻るための自然な時間的バッファがありません。だから解決策としては、自分を一人にしない状況を作り出せばいいのです。オンラインミーティングから退出したら、ちょうど監督が役者に言うように「OKです!」と自分に声をかけてあげましょう。あるいは「ちょっとマズかったね」でもいいし、横にいたアシスタントが「いや、先生よかったですよ!」と励ますのでもいい。
人生なんてどうせ芝居なんです。オンラインであろうがなかろうが。
【Q2】「photograph」を外来語初期は「光図」と訳していたそうです。しかしそれでは分かりにくいので「真実を写す」という意味で「写真」とした。けれども簡単に加工できる今の時代の写真は、真実を写すとは言いにくい。むしろ「心を写す」と書いて「写心」だと思う、とラジオのパーソナリティが言ってました。とても気持ちが悪いです。先生なら写真をなんと名付けますか。
【A2】もう「写真」として定着してしまったものを、今更名付け直すのは無理ですけどね。しかし「光図」は photograph の意味を反映した素晴らしい訳語だと思いますよ。分かりにくいはずはない。この方が分かりやすいと思います。
けれども訳語というのは、必ずしも良いものが残るとは限らないのです。「哲学」も、philosophy を意味を汲んで訳すなら「愛知」です。aesthetics も「美学」ではなくて「直感(学)」です。原語との対応がなくなっても、訳語として語呂がよければ使われ定着してしまうことがあります。「写真」もそうですね。
だが確かに「写心」はいただけない。「念写」みたいです。そして誤っています。というのも、「写真」の可能性の中心は、「心にもないこと」が写り込んでしまうという点にあるからです。「完全にコントロールできないこと」こそ、複製メディアの本質なのです。
「写心」に感じられた「気持ち悪さ」はしかし、これが間違った訳語の提案であるからではなく、「ちょっと気の利いたことを言って聴き手を感心させよう」というラジオのパーソナリティの下心が見えるためです。ネットや出版物で大量生産されるコラムやエッセイも、ほとんどはこのレベルのゴミです。
でもそんなものにいちいち文句を言っていてもキリがないので、気持ち悪いものは無視して、本当に面白い話だけを聴き、読むようにしましょう。時間がもったいないですからね。
【Q3】私は犬(特に小型犬)を見かけると、胸の奥が疼いてたまりません。彼らと同様の”言葉”を持っているような気になります。私の前世は犬だったのでしょうか。先生はヒト以外で理屈抜きで共鳴することはありますか。
【A4】前世は犬、というのは広く共有されてきた想像力ですね。落語の「元犬」というのがあります。「白い犬はいちばん人間に近い」という俗信に基づいたものです。Softbankのコマーシャルで、お父さんが白い犬であるのもそこから来ているのだと思います。人間に「いちばん近い」という考え方も面白いですね。「いちばん近く」なくても、人間に生まれ変わる候補は他にもいろいろいるということです。
落語「元犬」では人間になりたい白犬が、来世は待てず今生のうちに人間になりたいと、不動様にお百度を踏みます。こんなことをする時点ですでに十分人間ではないかと思うのですが、ついに願が叶って人間にしてもらう。けれども(やっぱり「通常」の輪廻プロセスをショートカットしたためか)、つい犬の習性が出てしまう、という話です。
ぼくはヒト以外の存在に理屈抜きで共鳴するか、という質問ですが、それはヒミツです。ちなみに、前世は動物ではなく人間だったそうです。たった一度だけ、数年前に秋田の美術イベントに本物の占い師が呼ばれていて、人に勧められたので前世を占ってもらったら、室町時代に東北のどこかにいた巫女だと言われました。
【Q4】最近だんだん街に出て買い物をするようになりました。ある店員は、説明が早口でこちらのペースを無視して論破するかのように畳みかけてきます。またある店員は、表面上はにこにこしているものの、客を小馬鹿にしていて接客の途中にも関わらず他の雑務をし始めて売る気がなさそうです。一晩寝ても忘れられないくらい感じの悪い店員と遭遇したらどうしたらいいですか。また、個人商店を買い物で応援しようと思うのもはもう古いことなのでしょうか。
【A4】ショッピングとは闘いです。甘く見てはいけません。「お客様は神様です」という言葉がありますが、これは「だから大切にせよ」という意味ではなく、「客なんて人間ではない」という意味なのです。店員の立場に身を置いてみてください。客は好きな時に出ていくことができますが、店員は来る客を拒めません。そして一日中、失礼な客や非常識な客や、一晩寝ても忘れられないくらい感じの悪い客と、笑顔で対面しなければなりません。だから、完全武装でやってくるのは当然なのです。
したがって人間同士の対等なコミュニケーションだという甘い幻想は捨て、闘いであるという自覚を持って買い物に行きましょう。といっても、客だからといって偉そうにせよと言っているのではありません。買う買わないという最終判断の権限はこちらにあるのだから、そもそも圧倒的に有利なのです。余裕を持って、しかし感情は抑制して臨むべきです。多数の店員を使う大きなお店ほど客対応のマニュアル化が進んでおり、店員は客の態度によって心理的ダメージを受けないように訓練されています。
そういう店の店員は兵士のようなもので、友達ではないのです。友達だと思うから、変な態度をとられるとダメージを受けるのです。客が商品について知識がないのは当然のことで、どんな基本的なことでも店員は説明しなければなりません。それをしないで客をバカにする店員はプロではないので、はっきりそう言ってやりましょう。それはクレームではなく忠告であり、お店のためにもなります(というかそれを聞くお店は良くなっていきます)。
ちなみに上のようなことは、日本におけるショッピングの心得です。欧米では一般に、個人商店の店員と客には、人間同士の対等な関係が求められます。だからお店に入ったらちゃんと挨拶し、客の方も笑顔を見せて、できれば世間話などをして打ち解けてから売買の交渉に入った方が、圧倒的に有利です。