【Q】京都の事件以来「安楽死」があらためて問題になっていますが、正直どう考えたらいいのか迷っています。自分が回復不能な状態になって、苦しくて死んだ方がマシと思った時、誰かに頼んで死なせてもらうのは悪いこととは思えないし、本当に自分がそうなったら望むだろうと思います。本人の意識がしっかりしているなら「死ぬ権利」は認めてほしいです。けれどもそういう意思表明ができない人とかを、外から見て「この人は生きる意味がないから安楽死させたほうがいい」ということに社会がなってしまうのは恐ろしい気がします。だから本人次第だと思うのですが、本人の意思を確認するのが難しい場合も多いし、安楽死を法律で認めたら悪用されてしまうのではないかとも思います。
【A】〈死〉というのは、世の中、つまり生きている私たちの世界に属する出来事ではありません。だから〈死〉に関して、この世界の規則や概念を適用することは、原理的にできません。「権利」とは、生きている者たちの世界における概念です。だから「死ぬ権利」と呼ばれているものは、本当は「死ぬ」権利ではなくて、〈耐えがたい苦痛を取り除く権利〉です。つまりそれは〈生〉に属するものです。「権利」とは、自分が当然享受すべき何らかの利益を護るということですが、現在の苦痛が取り除かれることをネガティヴな「利益」だと解釈するなら、それを「権利」と呼ぶことはできます。しかし〈死〉とは自分が消滅することなので、その「利益」を享受する主体は存在しません。
「安楽死」に関する議論において不足していると感じられる点は、それが常に、死を選択する人の意思や権利として語られるか、さもなければ社会や国家にとって生きるに値しない人を選別すること、いわゆる「優生思想」の問題として語られるか、この両極端のどちらかしかないということです。両者は対立する論点のようにみえますが、そのどちらに依拠したとしても、〈死〉に関わる、ある本質的な問いを取り逃しているように思えます。〈死〉とは、単に個人の問題でも集団の問題でもないからです。つまり、私(一人称)の視点や彼ら(三人称)の視点によって尽くされる問題ではないということです。
〈死〉は、その最も切実な様態においては、二人称の問題です。つまり、「私にとっての誰か」が死ぬ、あるいは「誰かにとっての私」が死ぬということです。災害、戦争、感染症によって今日は何人死んだ、というようなことを私たちは日々ニュースで耳にしますが、それらは単なる数値であって、〈死〉とは無関係です。数値は、それが繰り返され日常になると、私たちはそれに慣れていきます。逆に、慣れることができなければ私たちは発狂してしまいます。それに対して、〈死〉は自分の問題として向き合うべきだ等と言われますが、人は一人で死ぬことはできません。死ぬためには〈相手〉が要ります。この〈相手〉は、必ずしも生きている人間とは限りませんが、ここではこの世にいる人間として考えてみましょう。〈死〉はもっぱら私という存在に関して起こるのではなくて、私とその〈相手〉との間に生起する出来事なのです。
「安楽死」についての議論もまた、こうした〈死〉の本質的な二人称性を考慮しなければ十分ではありません。もしも私が安楽死を望むとすれば、それを誰に対して委託するのかということが、本質的に重要になってくるということです。委託された誰かは、自分が誰かを安楽死させるということを、単に合理的な手続きとしてではなく、全人格的に引き受けるのでなければなりません。合理的な手続きとして安楽死を実行するのであれば、それは機械で行うのと同じで、そこに〈相手〉は存在しません。この点からすれば、京都のALS嘱託殺人事件においては、法的な議論は別としても、〈死〉の二人称性という意味での〈相手〉が不在です。この医師は患者の主治医ではなく、SNSで知り合って金銭を受け取って「安楽死」を実行したからです。その背景には、生きるに値しない生は消滅させてもよいという一般的信念もあったようです。金銭目的、思想信条のいずれの動機からだとしても、この医師には患者の〈死〉を受け入れる資格がありません。
もちろん、相手の〈死〉を全人格的に引き受けたとしても、現状の法律では「殺人」とされる可能性もあります。ここで議論しているのは法的・客観的な「安楽死」の基準ではなくて、個々の生きる現実においては主観的でしかあり得ない人間の経験において、「安楽死」をどう考えるべきかということです。4年前に母を送った時、最期は病院から自宅に戻して延命治療をしませんでしたが、これは「尊厳死」と呼ばれ、もちろん刑法上の「殺人」として起訴されることはありません。また生前に母自身が希望していたことでもあるので、道徳的に非難されることもないでしょう。しかしそうしたこととは別に、深い意味においては、これはやはり「殺人」であるという意識を、私はずっと持っています。なぜなら、母がいつ死ぬかということを、ある程度自分の判断によってコントロールしたからです。
その判断が間違っていたと後悔しているわけではありません。判断は正しかったと今も考えています。しかしこの「正しさ」は、あくまで生きている者たちの世界に属するものです。〈死〉そのものに関しては、そうした「正しさ」そのものがそもそも成り立たないのです。だから、人の〈死〉は正当化するだけでは不十分で、つねにそれを引き受けてくれる〈相手〉が必要なのです。といっても、そんなに難しいことを言おうとしているのではありません。死んでゆく人自身の意思に加えて、主治医であれ家族であれ、その人と二人称的な関係を持つ人の意思が、基本になるべきだということです。そのことを法律として客観的に表現するのは難しいかもしれないが、「安楽死」についての社会的通念として広がることは望ましいと考えています。