以下のテキストは、先日横浜で行った研究会(科研費助成研究(基盤研究(A))「脱マスメディア時代のポップカルチャー美学に関する基盤研究」第2回オープン研究会「メディア変容と新型コロナウィルス」Part 2 2020年7月25日(土)14:00−17:00 日本丸研修センター第3会議室)で発表した「メディアにとってウィルスとは何か?」をもとに、そこでの議論やその後の考察についても思い出ししつ、自分のための覚え書きとして文章化したものです。覚え書きなので完全な論述にはなっていませんが、関心のある方のご参考までに。
1️⃣ 〈自然現象としてのコロナ〉と〈社会現象としてのコロナ〉
コロナの状況について全体として考えようとすると、そこには様々な要因が絡まって混乱しがちなのだが、ひとつの手がかりとして、〈自然現象としてのコロナ〉と〈社会現象としてのコロナ〉とを分けて考えみる、ということを試みてみたい。
現在「コロナ」と略称されるウィルス感染現象には、その生物学的・医学的・疫学的なレベルと、記号的・言語的・コミュニケーション的・メディア的なレベルがある。この二つのレベルはもちろん関係しているが、私たちの大多数にとっては後者が、直接的に重要で切実な問題を孕んでいる。
ウィルスそれ自体は自然の一部である。生物と言えるかどうかは議論が分かれるが、いずれにせよ自然界に属する存在である。だとすれば、〈自然現象としてのコロナ〉がどういうものか分かれば、〈社会現象としてのコロナ〉に対する態度もそれに基づいて決定されるのだろうか? そのように思えるかもしれない。
だが現実にはそうはなっていない。〈社会現象としてのコロナ〉にどう対処するかは、〈自然現象としてのコロナ〉についての冷静な科学的知見に従うべきだと思われるが、にもかかわらず〈社会現象としてのコロナ〉はそれ自体として勝手に動いており、ウィルスや感染に関わる客観的事実とも無関係に、暴走しているようにみえる。
もちろん〈自然現象としてのコロナ〉も、人為的な諸条件と無関係ではない。新型コロナに限らず、感染症の拡大は人間の文明活動の結果である。すなわち、グローバル化、行き過ぎた開発、人やモノの過剰な遠距離移動、都市への人口集中、清潔社会による抵抗力の低下、等々である。
それでは〈社会現象としてのコロナ〉はどんな条件の下に生じているか? それを次に考察してみたい。
2️⃣ 〈社会現象としてのコロナ〉の諸条件
まず、比較的長期的な条件がある。それは、近代的な医療の発展によって、「死」や「死」に結びつく要因(病いや老い)が、組織的に排除されてきた、およそ過去二百年にわたる近代化の歴史である。この変化は、もちろん普通の意味では「進歩」とみなされる。けれども進歩とは同時に退行でもある。
つまり、近代的な医療の普及による、生物学的な死の回避、生存の時間的延長、人口増加といった「進歩」と並行して、人は死や病い、老いについて真剣に考えなくなり、それらをあたかも技術に解決可能な「問題」としてみなすようになった。これが退行である。
そればかりか、生や死とは何か、人生そのものの意味についてもまた、人は自分で考えることをやめ、その意味の決定を社会や医療に委託するようになった。いわば「人生(生死)のアウトソーシング」である。これについては、先日の講義「美学特講1」10を参照。
また、マスメディアの影響、そして携帯端末の普及によって、リアルタイムの大衆制御が行われていることもまた、〈社会現象としてのコロナ〉を生み出している重要な条件である。マスメディアとインターネットは、しばしば対立するものであるかのように語られ、前者から後者への歴史的移行のような物語が語られがちだが、現状においては、インターネットを支配している論理は依然としてマスメディア的である。両者は絡み合って現代的なメディア環境を作り出しているが、全体としては未だに、よりマス(大衆)的制御力の高まった、いわば進化したマスメディアとして動いている。
その徴候のひとつが「ポスト真実」と呼ばれる状況である。もちろんネットには大きな潜在的可能性があり、そこには良質の情報、真実の情報もたくさんあり、着実に広がってもいるのである。SNS等でそれらに接していると、それらが発展してゆけば世の中は良くなってゆくように思われる。だが実際にはそれらは、膨大な量のデマや煽りに覆われて一般に広がらない。
「ポスト真実」とは、もはや真実などないという意味ではなく、真実が「ゴミ」情報に覆われて拡散されないという状況のことである。逆の立場から言えば、現状のネット環境においては、真実が真実それ自体の力で広がってゆくのを防ぐためには、検閲などの言論統制を行わなくても、「ゴミ」を大量に撒き散らすだけで封殺できるということである。
また「ゼロリスク」だとか「安心安全」といったスローガンが、真実を覆い隠す「ゴミ」情報として利用されてきたことも、〈社会現象としてのコロナ〉を生じさせている条件の一つである。生きることにリスクが伴うのは当たり前だから、「ゼロリスク」「安心安全」とはレトリックである。それらを実現可能な理想と考えるのは虚偽でありイデオロギーであるが、恐怖心に煽られている人々を誘導する道具として使用することができるのである。
国立病院機構仙台医療センターウイルスセンター長の西村秀一氏は面白い喩えを用いている。コロナウィルス感染は「負の宝くじ」だと言うのである。人が宝くじを買うのは、当たる可能性があると思うからである。けれども高額の賞などほどんど当たらないことは、誰でも何となく知っている。新型コロナも「重症化したり死んだりしないのか?」と言われれば、誰にとっても可能性はある。ただそれは、宝くじの一等が当たるようなレベルの確率である。
数年前、亡くなった母が白内障の手術を受ける時、手術中に眼球内に出血して失明する例が五千回に一回くらいあるという説明を受け、同意書にサインを求められた。母はその意味がよく分からなかったので、ぼくは眼科医に「先生から見てそれはどれくらいの割合ですか?」と訊ねた。すると「一週間に数回手術をする眼科医がその一生のキャリアの中で一回経験するかしないか、というところですね」と明確に答えてくれたので、安心して手術を受けることができた。
五千分の一は、宝くじの一等が当たるよりも遥かに大きな確率である。「ゼロリスク」どころではない。けれども私たちはそうした説明を聞くと、その眼科医にとってまさか今日が最悪の日になることはないだろうと思い、ひと安心する。つまりその程度の安全感覚で、私たちは日常を生きてきたはずなのである。それがなぜか〈コロナ〉においては、私たちはリスクをゼロにしなければという病的な「安全」幻想に振り回されているのである。これは、まったく異常なことだ。
こうした異常な世界を作り出した根底には、過去四半世紀に広がってきた政治的潮流がある。それは、先進諸国において1990年代後半から世界的に顕著になってきた、新自由主義的な政策転換の流れである。つまり、グローバル化を推進し、国家による財政政策を削減して国の力を弱くし、様々な公共サービスを民営化し、そのための規制緩和を促進し、医療や教育のような分野にまで、市場原理・競争原理を導入するという流れである。それは2010年代に至って限界に達し、イギリスのEU離脱やアメリカのトランプ大統領を生み出した。
〈社会現象としてのコロナ〉は、そうした流れの延長線上に生じている。国家による国民の保護が弱くなり、社会的な連帯感が希薄になり、競争原理と自己責任が強調される社会では、人々はバラバラになり、他人は全て潜在的な「敵」に見えるようになる。何か自分に悪いものを感染させるのではないだろうか? と疑心暗鬼が広がってゆく。全ての人が口ばかりか心にもマスクをして、とにかく自分が責任を追及されないようにすること、そのために隙あれば他人の責任を追求しよう、という態度へと誘導されるのである。
3️⃣ コロナは何を明らかにしつつあるのか?
コロナとは、「ファルマコン」である。「ファルマコン」というのは、毒と薬を共に意味する両義的な概念であり、また「犠牲」という意味もある。コロナがなぜ毒でも薬でもあるのかといえば、コロナは確かに上に述べたような、現代文明の弱点が累積することで結果した厄災であるのだが、同時にその弱点をこれまでにない仕方で顕在化させてもおり、その意味で、私たちに未来の選択を意識させ、変化の希望をも与えるかもしれないからである。
私たちは、テレビやネットで見聞きする「専門家」たちがみんな違うことを言うのに戸惑っているのではないだろうか。専門家の言説に惑わされるのは、彼らの知識や能力の問題というよりも、人々に向かって話をする時の、基本的な構えの問題である。いったい「専門家」とは何なのか、それは、ただ専門家であるというだけで、社会にとって役に立つのだろうか?
上に言及した、母の白内障手術を担当した眼科医は、五千分の一のリスクが何を意味するのかを、専門外の人々にも直感的に理解できる仕方で話したことを私は評価する。これはとても重要なことだと思う。なぜなら、五千分の一のリスクはもしかしたら今日起こるかも知れず、その時には同意書の有無にかかわらず、彼女は自分の言葉の責任を引き受けるということだからである。
それに対してコロナ感染の危険を煽る「専門家」たちの多くは、「感染の可能性がある」などという言い方をする。「可能性がある」というのは、無責任である。なぜなら専門家が「可能性がある」など言うと、それは一般の人々にとってはかなり強い警告を意味するからだ。確かに「可能性がある」ことは、それ自体は間違っていない。しかしこれは、専門家が仲間内で言うのはまだしも、人々に向かって言うのは、ただの責任回避である。
コロナはまた、「歴史の終焉」、「人間の家畜(動物)化」と「生-権力(biopower)」の浸透を、私たちの生活レベルにおいて有無を言わせぬ仕方で明らかにしていると考えられる。これはしかしやや抽象的な議論であり、ここでは詳述する余裕がない。コロナはウィルスであり自然に属する問題であるから、歴史とは無関係だと考える人もいるかもしれないが、このようにすべてが自然的なものに還元されることが「歴史の終焉」なのである。注意しなければならないのは、こうした自然化それ自体が歴史的であるということである。そのことだけをここでは指摘しておきたい。先日の美学会西部会でお話しした「美学は何の役に立つのか?──その後の考察」の最後の章でそのことを少し論じた。
コロナがグローバル化の限界と、その一方で、時代遅れとも思われがちだった「国民国家」の必要性を実感させていることは確かである。だがここで必要とされる「国家」とは、これまでのイデオロギー的な図式で理解されるようなものではないかもしれない。そのことと関連して、これまで主流の知識人層や文化人層と重なってきたリベラル派、左派あるいは左翼的な心性もまた、それが「国家」重要性を適切に理論化できず、結果として新自由主義やグローバル化に加担してしまったという点において、その無力さが顕在化したのではないかと思う。
この研究プロジェクトのテーマである、現代における「ポップカルチャー」についても若干言及した。「脱マスメディア時代」、つまりネット文化の拡大に伴って、それまではマスメディアを通じて流通していたポップカルチャーに、大きな変容が起こりつつあることは確かである。だが現在のネット文化がまだマスメディアのつよい支配力下にある以上、ポップカルチャーやサブカルチャーのマスカルチャー化とでも言うべき現象が進行していることも事実である。
また、私たちが日本のポップカルチャーに見出している多様で逸脱的なパワーの源泉は、1960年代から1980年代までの大衆文化の発展に由来するものが多く、それを支えていたのは堅牢な経済的・文化的中間層(中流)の存在であった。しかし過去四半世紀、貧困化・格差拡大によってそうした中間層はかなり空洞化しており、このままではポップカルチャーを生み出し支え続ける人口的な母胎が脆弱化してゆくことは、忘れてはならないと思う。
4️⃣ 「脱マスメディア」について
「脱マスメディア」とは将来的な課題であり、既存の事実ではないと私は考えている。言い換えれば、現状においてはまだ、ネットの正体とはゾンビ化したマスメディアではないのか? と疑っているのである。
私を含め人文学研究者・文化研究者の多くは、曖昧な言い方であるが、リベラル左派的な傾向を共有していると思う。つまり、人々がその個性を自由に主張し、多様性や逸脱性を表現できるようになれば、社会は良くなってゆくのではないかというような心情である。その際、自発的な社会的連帯は重要視されるが、自治体や国家のような制度的統合に対しては、どちらかというと敵対的な気持ちを持ちやすい。
ネット文化はそうした多様化を促進するように思えるので、それに大きな期待をかけるようになる。私自身、1980-90年代においてはそうであった。しかし今から考えると、それは「空想的社会主義」のような、ユートピア的で理想的なネット社会観であったかもしれない。だがネットにはまだ未開拓の大きな可能性があるのだから、そうした理想主義は全面的に否定すべきものでは決してない。だが、それではネット文化の可能性とは何であるのかを、事実的事象の考察だけではなく、理論的にも掘り下げてゆく必要があると感じている。
前回の研究会で室井尚さんが議論したヴィレム・フルッサーのコミュニケーション論を私も久しぶりに再読してみた。フルッサーによれば、コミュニケーションとは本質的に孤独な人間が、自分が置かれている無意味な世界に意味を見出すために行う活動である。ここで言う世界の「無意味さ」とは何か? フルッサーの場合、それは実存哲学的な比喩よりも、むしろ物理学的あるいは情報論的な「エントロピー」の概念によって説明される。
「エントロピー」とは、出来事の無秩序さの量であり、それはいわゆる「時間の矢」の運動と共に全体としては常に増大する(熱力学の第二法則)。コップは割れるが、割れたコップが元に戻ることはない。生命とは、そうした無秩序化する宇宙の中にあって、局所的に秩序を生み出し、それを維持し発展させる運動であって、そこに現れるのがコミュニケーションである。
生命活動によって宇宙のエントロピーが減少するのではない。生物や人間がいようがいまいが、宇宙全体のエントロピーはやはり増大している。エントロピーが減少し秩序が生まれているように見えるのは、生命圏という宇宙の中の小さな島においてだけなのである。
こうした世界観においては、生物や人間の存在はとても孤独なものとして感じられる。だが、それは世界を全体として、ひとつの「マス」として考えるからである。エントロピーというのは、宇宙を構成している諸物の運動を統計的な全体として計算した時にのみ現れてくる概念である。だが、生物や人間はそうした「全体」の中に生きているわけではない。
私は「マスメディア」というのも、理論的には、新聞やテレビのような既存のコミュニケーション媒体を前提に考えるのではなく、むしろコミュニケーションの主体を「マス」として、統計的な量に還元して考えられた時のメディアの様態を意味する概念として再考したいと思う。この意味では、SNSのようなコミュニケーションも、それが「いいね」やフォロワーの数のような、情報拡散の数的規模によって理解されている限りにおいては、ネットではなくマスメディアなのである。
疫学的な説明は個人ではなく集団において生じる現象の相関についてのものであり、今日では人工知能によるビッグデータの解析によって強力なものとなっている。けれども、たとえその結果が「マス」レベルで客観的に正しいとしても、それは自動的に個人の行動を決める根拠となるわけではない。マス的世界と個人的世界とは別なリアリティであり、両者の間には単純な因果関係はない。
5️⃣ 〈社会現象としてのコロナ〉は、いったい何の兆候なのだろうか?
〈社会現象としてのコロナ〉が、ある程度意図的に、人々の恐怖を過剰に煽り、特定の利益に誘導するために作り出されていることは確実である。恐怖は金になる。また、人々の恐怖を自分の政治的な力を増大させるためにも利用できる。マスメディア、ネット系産業、一部の大口投資家たち、ポピュリスト系政治家等は、〈社会現象としてのコロナ〉によって明らかに大きな利益を得ている。AmazonやMicrosoft等のCEOは軒並み資産を増大させているし、Facebookのザッカーバーグは63%も資産が増えている。もちろん私たちは皆それに貢献しているのである。
最後に日本のことを考えてみる。近隣のアジア諸国同様、日本は欧米諸国に比べて重症者や死者の数が二桁も低いにもかかわらず、また罰則を伴うロックダウンが施行されないにもかかわらず、危険地帯を特定しない全体的な活動自粛が行われている。この背景には、戦時中にも見られたような「集団的耐乏状態」への強い志向が感じられる。現在の社会に蔓延している気分は、例えば1930年代の日本を覆っていた一般的雰囲気を直感させてくれる。過去がとても近く感じられる。
一部のマトモな(=政治的バイアスの少ない)専門家や知識人たちは、現在の日本における活動自粛が明らかにやり過ぎであり、感染予防の効果よりも、社会や経済に与えるダメージの方が遥かに大きくなることに警告を発している。私もそうした立場である。冷静に客観的数値を評価すればこうしたことは明らかであるにもかかわらず、そうした観方はなかなか広がることがない。それは人々が、恐怖に煽られて正気を失っている、みんなバカだ!といった苛立ちが、ネット上などには散見されるが、一概にそうとも言えないのではないかと私は疑っている。
というのも、全国的な外出や活動の自粛は深刻な被害をもたらすにもかかわらず、みんなでマスクをしたり、何もかもをオンライン化するというこの状況には、どこかしら祝祭的な盛り上がりに似た側面を感じるからである。少なくとも日本に関する限り、人々は「コロナは怖い」と言いながら、本当に怖がっているのはウィルスや感染ではないのではないかとすら思われる。「過剰反応である」という一部の専門家の言うことに人々が耳を貸さないのは、無意識には「そんなことは分かっている」と思っているからなのではないだろうか。
これはまったくの想像に過ぎないのだが、私たち本当はコロナ感染が心配なのではなく、間も無く起きるかもしれない世界の激変に対して、漠然とした不安を抱いているのではないだろうかと私は思う。それが破壊や戦争であるのか、それともより積極的な社会変革であるのか、はっきりしない。そこに祝祭的な面も感じられることから、幕末の「ええじゃないか」のような現象を思い出した。
もちろん現在のは活動自粛なので、そうした集団的乱舞とは印象が逆なのだが。1867年にそうした熱狂を引き起こしたきっかけは、空から伊勢神宮の神符が降ってくる「御札降り」という集団幻想である。今世の中にに溢れかえっているこの「マスク」とはいったい何なのだろう、と私は思う。誰もが口に「御札」を貼られている。世界中の人々がマスクをして歩いている光景を目にするたびに、私にはそんな狂った連想が起こるのである。