関西学院大学大学院「美学特殊講義1」雑談09
「ポストメディアとポストコロナ」
昨日(7月2日)の夕方、初めてzoomによるオンライン講義というのを経験した。
オンラインの会議は毎週のようにあるのだが、講義は実はまだやったことがなかったのである。今のご時勢に、大学教員でありながら、呑気なことだ。今年度前期には同志社大学と関西学院大学の講義を担当しているが、どちらも大学院で人数は多くない。同志社は登録が1名なので2週間に一度くらい研究室に来てもらっている。たいていはアシスタントの人も一緒に聴くので受講者は2名である。今の研究室はとても広く距離も十分確保できるので感染対策上は問題ない。そして関学の講義は、ご存知のようにこのブログで行っている。
昨日の講義は、美術家の村山悟郎さんが東京芸術大学の油画専攻で行っている隔週のオンライン講義に、ゲストとして招いていただいた、一回限りのものである。「ポストメディアとポストコロナ」という題で40分くらい話し、その後受講者がチャットで送って来る質問や、村山さんのコメントに反応する形で進めた。彼がコーディネートしてくれたおかげで、とても楽しく話すことができた。もしそれがなかったら、オンライン講義というのは大変な試練だなと実感した。
同僚の教員たちからはたぶん、今さら何いってるんだと言われそうな気もするが、昨日の講義でどんなことを感じたか、記しておきたい。
まず、聴衆の顔が見えないので、間合いが取れない。そのことから逆に、これまで対面で話している時は、聴き手が示すわずかな表情の変化や仕草から、自分がいかに話のリズムや流れを調整しているかということを痛感した。人数が多い時には、もちろん一人ひとりの表情は意識に昇らず、大勢がまるでひとりの人間であるかのように、聴衆全体が集合的な反応を返してくる。それはぼくの幻覚なのかもしれないが、たとえ幻覚でも自分の話を調整することには役立っているのである。
それに対してオンラインでは、受講者の顔が見えないし、たとえビデオをオンにしてもらって全員の顔が見えたとしても、対面状況と同じにはならない。ひとつには受講者たちが同じ空間にいることで起こるインタラクションがないからである。対面状況というのは、シャノンの通信モデルのような「発信者→通信路(+ノイズ)→受信者」というようなものではなくて、その構成員のそれぞれが様々なレベルで行っている、ほとんどは無意識の相互作用、予測、先読みや遅延を伝える情報のネットワークによって出来上がっている。オンライン講義の経験は、むしろそのことを身にしみて教えてくれるもので、その意味では面白かった。
ちなみに先ほど「大変な試練」と言ったのは、話し手にとってである。上述のようなインタラクションがないために、話者は自分自身と向き合わざるを得なくなる。話しながら、いわば、その話を冷たく聴いている意地の悪い聴き手が、自分の中に生まれるのである。その聴き手は、「そんなつまらんことをよくペラペラ喋れるもんだ」等と思いながらも、沈黙している。沈黙しているために、その聴き手が本当は自分の心の中ではなく、モニタ上の無言の聴き手たちの中にいるかのような錯覚が生じる。生ある者が犯す愚行の数々を、もの言わぬ死者たちにじっと見られている──そんな感覚である。
こんな苦行が何度も続けられるわけはないので、これをしている日本中の教員の人たちは、みんなどこかで適当に誤魔化して折り合いを付けているのではあろう、と思う。ぼくも繰り返せばできるようになるのかもしれないが、今のところは一度だけなので想像がつかない。
さて、「ポストメディアとポストコロナ」という話の要点は、ウィルスは人間の文明や社会のことなどあずかり知らないことは確かだけれども、コロナという現象はメディアによって生み出されたものであり、またコロナという現象を通して、上述したような経験も含め、私たちはメディア──マスメディア、ネット、およびそれらの関係──について、これまで無意識であったことを自覚的に経験するようになったのではないか、ということである。
ネットが一般に普及し、ネットなしには政治も経済も文化も個人生活も成り立たないような世界になってだいたい20年くらい経過したが、ネットは確かにインフラとしてはネットであっても、それを用いそれを経験する私たちの心の枠組みは、依然としてマスメディア的な「出版」や「放送」といったモデルに、深く影響されてきたのではないだろうか?とぼくは考えている。
言い方を変えれば、現代の私たちにとってネットは当たり前の、既存の現実のように見えるし、また子供や若者たちは物心ついた時からネットが存在する「ネイティヴ」だと言われたりもするのだが、本当は、私たちはネットをマスメディアの一種として利用しているだけで、まだネットの本当の使い方など、知らないのではないだろうか?
そうした問いが、2011年の「3・11」や、現在の新型コロナのような危機をきっかけとして、少なくとも一瞬は自覚されているのではないか。もちろん、地震や津波、原発事故や感染症は、直接メディアの状況に関係した出来事ではなくて、いわば「外圧」としてメディアを外から揺さぶるリアルな事象である。けれどもそのことによって私たちは、メディアに関して自明だと思ってきたことが、実はまったく自明ではないという事実を経験をするのであり、それはとても重要なことなのだと思う。非常事態が一刻も早く元に戻ればいい、というような単純な話ではないということである。
たとえば「3・11」の後、テレビ放送は異常な状態になった。それが少しずつ復旧し始めた頃、ぼくはニュースを伝えるアナウンサーが、その内容のあまりの惨状に言葉をつまらせたり泣き出したりしたら、テレビというメディアは新しい局面を迎えるのではないかと書いたことがある。日本のテレビではナレーションの沈黙がわずか数秒間続いても、「放送事故」とされるそうである。何らかの映像コンテンツを作成することは、今では小中学生でも(小中学生の方が?)簡単にやってのけるが、出来上がる作品の多くはテレビ番組やYouTubeの模倣である。YouTubeも、「成功している」ものは大抵テレビ番組の断片化された模倣であるから、結局はすべて、未だにマスメディアの支配下にあるのであるように見える。
けれども実際には、逸脱的な現象はネットの中に夥しく発生している。ただそれらは(テレビや新聞などで取り上げられないので)、多くの人にとって未だ不可視なのである。不特定多数の人に共有される経路を所有していることがマスメディアの最大の、そして唯一の強みであり、ネットは今のままではそれを掘り崩せないし、またネットがマスメディアの地位を簒奪することが、必ずしも重要であるわけではない。そもそも「マスメディアがネットに取って代わられる」といったセンセーショナルな筋書き自体が、マスメディア的想像力の産物である。
昨日の講義の最後で、ポスト・マスメディア的なネットの活用例として、ぼくが直接知っている人たちがYouTubeによるラジオ配信を始めていることに言及した。それも、普通のラジオ番組の模倣ではなく、普通のラジオ放送ではありえないような内容のものなのだが、不思議に面白くて聴いてしまうのである。それらをなぜ聴いてしまうのかということは、考えるに値する問題だと思うのだが、ぼくはまだ十分説得的な答えを見つけることができない。とりあえず最近の具体例を二つ紹介しておきたい。
ひとつは、「山羊昇の野放しラジオ」(https://youtu.be/kOWGCupO3jw)という番組である。この山羊昇という人はダンサー(ダンサーとしては別名で活動)で、ぼくがかつて京都造形芸術大学で行われたダンスのワークショップで講義したのがきっかけで、京大文学部や同志社大のぼくの講義にもモグるようになり、もう10年くらい前から知っている。「野放しラジオ」は今年の1月から始まって、毎月9日に公開され、まもなく7回目がアップされるはずである。映像は内容には関係のない静止画なので、何か他のことをしながら流し、本当にラジオのように聴くことができる。
内容は、山羊が自分のことや最近の出来事、考えていることについてマッタリと(京ことばの「まったり」じゃなく若者語の意味での)つぶやいていくというもので、毎回ゆるいテーマ設定はあるように思えるが、そのテーマについて系統立てて議論したり何らかの主張を行おうとするものではない。そして完全なモノローグではなく、収録現場には前に聴き手がいる。だが対談ではなく、聴き手は基本的にひたすらうなずくだけ、という役割である。トークというより、山羊の「つぶやき」が目的と言えるが、しかし人間そんなに長い時間ずっと「つぶやいて」いられるものではないので、時々は議論っぽい方向や、ちょっと主張っぽい方向に揺らいだりもする。
そういった揺らぎも面白いようにぼくは思うのだが、本人としては不満もあるらしい。ちなみに山羊はこのブログ講義も毎回読んでおり、自分の語りが少し硬くなりすぎるのは、ぼくが2回目の講義で触れた「知識人」的な語りを目指そうとしてしまうからではないかと反省し、もっと「おしゃべり」的なつぶやきに戻る方がいいと考えているようである。ぜひ一度ご試聴していただきたい。
もうひとつ、さらに最近始まったネットラジオの例は、かつてぼくが教えていたIAMAS(情報科学芸術大学院大学)の卒業生で、アニメーション作家の早川貴泰と映像制作者の小野寺啓が行っている「生きづラジオ」(https://youtu.be/BpamDuklewQ)である。これは雰囲気も内容もまったく違う。この4月9日に第一回目が公開されたばかりなのだが、その後ものすごい頻度で作られており、7月3日現在ですでに29回を数えている。映像は、この二人が(時々はゲストも登場する)オンラインで話している上半身の動画である。考えに詰まったり会話が途切れて沈黙したりすることもあるが、概ね穏やかな会話の流れであり、ハラハラするような瞬間はない。
特筆すべきなのはこの番組のテーマである。二人は対等に対談しているのではなく、小野寺が聞き、早川が答えるという役割になっている。二人がどういう人なのかについては文字でも紹介されているが、毎回の冒頭で早川は自分を「メンヘラバツいち引きこもり無職です」と紹介し、小野寺は「そんな早川さんに小野寺がいろいろ聞いていきます」と応じる。つまり「病気」に起因して早川が経験している生きづらさについて、小野寺が聞いていくというものである。ある意味では公開の人生相談、あるいは心理療法のように思う人もいるかもしれない。
確かに、早川の個人的な悩みを覗き見るというような側面がないとは言えない。小野寺はセラピストではないが早川の後輩であり友人であり、友人として早川の悩みを聞いて、少しでも改善してあげたいという個人的動機はあるだろう。そのレベルでは普通に、心温まるようなものかもしれない。
けれどもこのラジオは、個人的な悩みの解決を目的としているようには見えない。明らかに、早川の個人的な「病気」に起因する困難が、実は今の時代に生きる多くの人に共通する「生きづらさ」を反映している、という視点がある。つまり非常に普遍的なテーマを目指している。それは、そもそもこの内容を公開のインターネットラジオで発信するということや、その番組を「生きづラジオ」と名付けるということからして明白であるようにも思える。彼らの話を多少とも共感して聴く人は、自分自身の「生きづらさ」を早川の「行きづらさ」の問題と重ね合わせて経験するかもしれない。
一方、早川は対話の中では自分を、本当はアニメーション作家としてもっとバリバリ作品を制作して、メジャーな(と言っても商業的なものではなくアート的アニメーションだから、そういうものとしてメジャーな)存在になりたいが、今は「病気」のためにそれができないという悩みを率直に告白する。彼の中にあるこうした成功願望には、どちらかというと、ぼくのような古い世代の人間に見られる、マスメディア的「成功」のイメージが強く感じられる。だが回を重ねるにつれ、早川はそのことに懐疑的になる瞬間も現れてくる。
その過程で、いろいろと面白い言葉が生まれる。たとえば、「生きづらいけど幸せ」。これはなかなか秀逸だと思う。というのもそれは、キラキラしたキャリア、充実した生活、あるいは「リア充」、何でもいいが、現代において表向き、誰もが目指すべきとされているそうしたモデルは、実は「幸せ」とは程遠いインチキではないのか、と言っているように、ぼくは感じるからである。勝手に言い替えさせててもらえるなら、「生きづらいけど幸せ」というより、「生きづらいからこそ幸せ」。ぼくは今の社会で生きづらさを感じないような人は、深刻に不幸だと思っているからである。
自分勝手な感想を重ねてしまったが、それにはとらわれず、ぜひ両方とも一度視聴していただきたいと思う。