「美学特殊講義1」第7回
「アーティスティック・マインドを考える① ──自由と遊びについて──」
「アーティフィシャル・マインド」とは区別される「アーティスティック・マインド」について、少しずつ話をしてみようと思う。
前回の結論を要約するなら、アーティフィシャル・マインドとして理解されたあらゆる能力は、原理的には人工知能によって代替可能ということだった。代替可能であるどころか、能力としては桁外れに人工物によって凌駕されることは不可避である。そしてそこには、「意識」とか「感情」とか「意志」とか「美的判定能力」とか「創造性」とか、これまで人間固有とされてきたような「聖域」は存在しない。何であれ、客観的なテストによって確認できる能力である限り、それはアーティフィシャル・マインドの圏内にある。それが現時点において実現不可能であるとしても、実現を阻んでいるのは技術的な問題だけである。
それに対してアーティスティック・マインドとは、その外部にある何かだということになる。
重要なことは、ここには価値の序列は何ら存在しないということである。つまり、人間の行う様々な活動の中で、機械によって代行可能な諸能力と、決して代行されることのない「魂」のようなものがあり、後者こそが人間を人間たらしめているものだ、というようなことを考えているのではない、ということだ。サイエンス・フィクションにはこうした「機械vs.人間」というテーマが今なお頻出するので、多くの人はそうした価値観に深く影響されており、それがアーティスティック・マインドについて考える際の深刻な障害となっている。
端的に言うなら、人間か人間でないかなんて、どうでもいいのである。(ちなみに「ポスト・ヒューマン」をぼくはこのように理解する。つまり人間と非-人間との境界が緩くなることである。人類が「終焉」したり、それが機械に「取って代わられる」ことではない。そうした終末論的なポストヒューマンのイメージは、ヒューマニズムを克服するものではなく、いわば有神論に対する無神論のようなものであって、依然としてヒューマニズムではないかと感じる。)
さて、アーティスティック・マインドというのは、定義できない神秘的な何かではない。また、到達困難な高度な能力でもない。実は誰もが当たり前のように持っている能力であり、頭で理解していなくても、身体は「知っている」ような特性である。それは技術が自然として現れる様態、技 art が強制力としてではなく自発性として働く局面のとこである。強制力がないというのは、それが物理的に存在しないという意味ではなくて、強制力として知覚されないということである。
言い換えれば、技 art が「自由」に働くということである。
「自由」という、たいへんビッグな概念が出てきてしまった。ビッグだけれども、誰でも当たり前のようにこの言葉を使っている。「芸術は自由だ」などと聞くと、何となく意味のあることを言っているような気がするし、「表現の自由」はしばしば論争の的になる。「自由」には、様々な哲学的、倫理的、法的な意味が錯綜してオーバーラップしており、漠然と言われただけでは、誰でも自分の好きなようにその言葉を解釈してしまい、マトモな議論にならないことがしばしばである。
議論が噛み合うためには概念の定義を厳密化してゆかなければならないが、あまり厳密化しすぎると、今度は思考の動く余地がなくなる。運動を効率的に伝達するためには、歯車の噛み合わせには小さなギャップが必要である。このギャップのことを「遊び」というが、アーティステック・マインドについて考えるための「自由」というのは、こうした「遊び」と密接に結びついた概念である。「自由」といっても政治的に価値付けられた高邁な理念、といった意味ではない。むしろギャップ、隙間といったイメージである。けれども隙間と言っても、どうでもいいような些末なものではなく、本質的に重要なものなのである。
ここでの「遊び」とは、ルールに従って勝敗や得点を競う「ゲーム」のことではない。ちょっと雑談的な例を挙げて説明するとしたら、例えば次のようなことだ。
IAMAS(情報科学芸術大学院大学)で教えていた時、時々訪れていた、大垣に昔からある居酒屋さんがあった。そこには、お品書きはあるのだけれども、料理の値段が書いていなかった。そして伝票もなかった。お勘定をする時には小さな紙に合計金額を書いてくれるだけである。といっても法外な料金を要求されるわけではなく、それどころかリーズナブルで良心的なお店だった。学生たちにご馳走したりすると、安すぎるのではないかと思うこともあった。ある時客の一人が、どうしてこの店では値段を書かず伝票も出さないのか、と聞いたところ、女主人は「それでは〈遊び〉にならないでしょ」と答えたのである。
この「遊び」というのは、あえてルールを設定しないで余地を残すことなのだが、それによって何か別な目的(利益を最大化するなど)を達成するための条件ではないのである。むしろ、ルールを厳密に設定しないことそれ自体が重要なのである。拘束条件を除くと、それによって何が可能になるか?と私たちはつい考えがちだが、実は拘束条件が存在しないという事態そのものの中に、重要な意味があるのだ。
「自由」に関しても、たとえばこんな話を思い出した。甲南大学で教えていた時、ある学生が授業の後で研究室にやってきて、自分の実家で飼っていた犬の写真をぼくに見せた。「これどうしたの?」と聞くと、「この前夏休みに帰った時、ある朝、首に紐をつけたまま家の塀からぶら下るような格好で死んでたんです。」と言う。「それは可哀想なことをしたね。いったいどうしてそんなことになったの?」と聞くと、次のような話をした。
その犬は元々、夜になると紐を引っ張って外に出ようとするので、いったい何処に行きたがっているのだろうと思って、ある夜、首輪を外して観察してみたのだそうだ。すると犬は、家からわずか2、30メートルばかり離れた四つ辻までいって、そこで座って周囲を眺めたり、寝そべったりしているだけで、朝になると家に戻ってくるのだと言う。そんなことなら自由にさせてやろうとその学生は思ったが、やはり住宅街で犬を放し飼いにはできないと言われたので、紐を付けておくことにした。すると悲劇が起こってしまったのである。
いったい何の話をしているのか分からなくなってきただろうか?
それでは、映像作家で哲学者のトリン・T・ミンハさんから昔聴いた話。彼女はサイゴン出身で、ベトナム戦争の時に家族がアメリカ合衆国に移住し、イリノイ大学やソルボンヌで勉強した。1970年代の終わりにはセネガル共和国の学校で音楽を教え、その時の経験を元にした16ミリのドキュメンタリー映画『ル・アッサンブラージュ』(1982)で世界的に有名になった。今はUCバークレーで教えている。
彼女がセネガルに滞在していたある日、連絡なしに一人の友人の家を訪ねて、出てきた使用人に「彼は今家にいますか?」と尋ねたそうだ。「家にいます。」「どこにいますか?」「中庭にいます。」「中庭で何をしていますか?」「中庭で、椅子に座っています。」こう話して、分かりますか? というふうにぼくの顔を見た。ぼくは何のことか分からなかった。すると彼女は言った。こういう状況では、普通は英語でもフランス語でも、そしてたぶん日本語でも「彼は何もしていません」と言うのです。それは、あなたのご用に対応可能(disponible)です、という意味です。
けれども庭で椅子に座っているというのは、本当は何もしていないのではなくて、何かをしているのだ、と彼女は言った。Disponible というフランス語は、「手が空いている(から用件に対応可能)」ということですが、それは見方を変えれば、「拘束のない、自由な状態にある」という積極的な意味でも理解できると。
飛躍するが、その時にぼくは、大乗仏教の「空」という概念を思い出した。ぼくは祖父がアマチュアの禅マニアだったので、その影響で子供の頃からお経を読んだりしていたのだが、「空」というのは『般若心経』の「色即是空」にしても、感覚が捉える世界は実は儚く空虚である、だから感覚的世界に執着するな、というような意味だとずっと思ってきた。つまり「メメント・モリ(死を思い出せ)」のような意味である。それは多分間違ってはいないのだろうけど、ただそれだけのことだとしたら、何だか説教臭くてつまらんなー、と思ってきた。
でも歳を重ねるにつれ、別にちゃんと仏典を勉強したわけでは全然ないのだけれども、「空」というのはそうした教戒的な意味ではなくて、また単に「空虚」というようなネガティヴな意味でもなくて、むしろ世界のリアリティを「自由」として、つまり無限の行為の可能性を潜在させながらそれ自体はある種静止した状態として認識する、というようなことではないのだろうか、と思うようになった。
ぼくが「アーティスティック・マインド」について考える時には、こういう背景がある。この「アーティスティック・マインド」というテーマは、たぶん現象学とか、ハイデガーとか、西田哲学とか、今流行りの新実在論とかと関係付けようと思えばできるような気もするのだが、面倒くさいので今日はやらない。最後に、以前若いダンサーやコレオグラファーの人たちとのワークショップで話したトピックを思い出したので、それに触れて終わりにする。
舞台の本番に出る直前に、よく「頭が真っ白になる」というようなことを言う。多くの人は、大変な不安を感じる瞬間だと思う。あんなに練習してきたことや憶えてきたことが、これからそれを実演しなければならないのに、何ひとつ思い出せなくなる瞬間。そのように普通はネガティヴに思われるこの「頭真っ白」というのは、実は身体が高度なパフォーマンスを実現するために積極的に作り出している、極度の自由度と潜在性を伴った状態であって、それが意識にモニタされると「何もない」という知覚が生じるだけではないか、と考えた。だから「頭が真っ白」は積極的な意味を持つ経験なのであり、パフォーマーはそれを避けるのではなく、それと付き合っていくことが大切なのではないか、と。