速読について
先ほど、思わぬ質問が来た。それは「速読」について。
たしかに、SNSにはよく、速読講座のような広告が入って来る。一冊を1分で読めるようになるとか、信じられないようなことが書いてある。そんなことができたら、もう超能力だと思う。
とは言え、自分は一度もやったことはないし、やりたいと思ったこともないので、その中身をまったく知らない。だから、そんなのはインチキだと決めつけるつもりはまったくない。
でもこの質問をした人は、ぼくはとても早く本が読めて、だから忙しくてもたくさんの本を読むことができて、しかもその内容をよく記憶しているのだ、と想像しているらしい。
それはまったく違います。
ぼくは本を読むのは遅いし、たくさん読むこともない。記憶力もそんなによくはないと思います。しかし、別にもっと速く読みたいとも、多く読みたいとも、記憶したいとも思ったことはない。
面白いものはつい読んでしまうものだし、自分にとって重要なことは嫌でも憶えてしまう。そうしたことは努力して身につけるような能力ではないと思っているだけである。だから速読にはそもそも縁がない。たとえそうした超能力が存在するとしても、別に欲しいとは思わない。
速読ということに惹かれる人は、たぶん読書を、情報収集のためのやむを得ない手段だと考えているのだと思う。単なる手段だから、できればなるべく手間をかけない方がいいし、錠剤を飲んだら本の内容が全部頭に入ったり(小松左京の小説にそんなのがあった)、脳に直接ダウンロードできたりしたら、もっと効率はいいだろう。
ぼくにとっては読書は手段ではないので、たとえそうしたことが可能になったとしても、やってみたいとは全然思わない。
それは例えば、食べることと同じで、食べることがもし栄養摂取の単なる手段だったら、料理に手間ひまかけたり、食事に時間を費やしたりするのは無駄だから、なるべく早く簡単に済ませる方がいいだろう。
まったく栄養にならないものでも美味しいものがあるように、読んでも何の足しにもならない本が、とても魅力的であったりする。本を読んで知識や洞察が身につくとしても、それは単なる結果であって、目的ではない。
よく知らないけど、速読術というのは昔からある。とりわけアメリカで盛んなような印象がある。
本当にそれを身につければ一日に何十冊もの本が読めて、その内容が身につくのだとしたら、速読術によって膨大な知識を身につけた賢者たちで、すでに世の中は溢れかえっているのではないだろうか。
でもぼくはそういう人に会ったことがないし、間接的に見聞きしたこともないのである。速読術の広告の中以外では。