関西学院大学「美学特殊講義1」
第4回
マスクとオンラインの世界になって約3ヶ月。そんな中で、学校関係は新年度が始まって2ヶ月。この講義は連休明けから始めたのでまだ4回目ですが、正直なところ、かなり疲れてきました。
何に対していちばん疲れるかというと、多くの人々がこの状況に慣れてきた(ように見える)という状況に対してです。「新しい生活スタイル」とかいうものが、本当に日常になってきたことに対して。あれ、と気がついてみたら、何ヶ月か前は考えもしなかったようなことを、日本中いや世界中の人が、当たり前のようにしている! そのことをほとんどの人はもはや不思議とも異様とも思っていないのか、それとも思っていても口に出さないのか、とにかくこの「普通の」風景を見ることに、疲れてしまいました。
ただ、異様だとは感じるけれども、多くの人が考えもせず大勢に従っている状況を、批判したり告発したりする気はないのです。これは、自分の怠惰であり退廃かもしれないとは思います。ぼくは、自分が正しいと信じることを広めることによって、世界が少しでも良くなるとは思えないのです。つまり「啓蒙」を信じていないということです。教育者として失格と言われればその通りかもしれません。
情熱的な啓蒙家はいつの時代にも存在してきた。そうした情熱を持つ人々をぼくはリスペクトするし、支持もします。でも同時に、少数の啓蒙家たちと、啓蒙によっては変わることのない大多数の人々という構図もまた、歴史の不変の風景であると思う。それは何を意味しているのか。
世界はしょせん変わらないというわけではありません。それどころか、世界は恐るべき仕方で、劇的に変化してきました。そのことを証明しているのが、他ならない今の状況です。
ただ、世界は劇的に変化するけれども、それは啓蒙家が意図し予測したような仕方では変わらないと思うのです。変化は大抵の場合、思いがけない仕方でやってくるのではないかと考えています。世界を一変させた革命的激動も、ドラマやドキュメンタリー番組でしばしば描かれるような、新しい思想や歴史的自覚が多くの人々の間に燎原の火のように広がってついには蜂起する、みたいな劇的なことでは実はなくて、ウィルス感染のような偶然的でもあるような何かの要素が突然入ってきて、有無を言わせない仕方で変化を促したのではないかと想像します。
コラムニストの小田嶋隆さんが『日経ビジネス』に最近書いていたエッセイで、安倍政権の支持率を劇的に低下させたのは「アベノマスク」ではないかと言っていました。無能さとか、スキャンダルとか、政策上の失敗とか、そういう「真正面から」現政権にダメージを与えると「知識人=啓蒙家」なら考えるマイナス要因では、なかなか下がらなかった内閣支持率が、こんな「アベノマスク」(先週うちにも届きました)のような、本当にくだらない、バカバカしいとしか言いようのないちっぽけな物体によって、致命傷を与えられるということは、ありうると思います。いわばアベノマスクこそ一種のウィルスだということです。あんまりいい例じゃないかもしれないが、とにかく歴史というのはそんな風にして変わっていくのだと思う。
と同時に、今のこの状況は、過去をとても近しく感じさせてくれるという点で、ぼくにとって重要な経験でもあります。先日、亡くなった義父母の家を整理していて、戦前の流行小説が1950年代に文庫化されたものなどか出てきたのでいくつか読んでしまったのですが、その中にたとえば朝日新聞に1938年に連載されていた岸田國士の『暖流』という作品がありました。1938年という時代でありながら、物語の表層は大病院を経営していたブルジョワ一家とそこに入り込む主人公との葛藤や恋愛がテーマです。でも同時に、突然召集されたら生きて帰れないかもしれない、という意識も常に動いている。平和な日常感覚と併存する戦争や死の自覚もまた、多くの人にとってはまるでウィルスの蔓延のように、気がついてみたらそうなっていた、という感じではなかったのだろうかと思いました。
あるいは逆に、1945年8月に太平洋戦争が終わって、昨日までの戦争と死という意識モードが突然、平和と生という正反対の方向に投げ込まれました。そのことは知識としては理解できるし、暴力的な経験であっただろうと想像もしましたが、そもそも多くの人にとってどうしてそんなことが可能だったのかが、実感としてこれまでピンとこなかったのです。歴史映像では、昭和天皇の玉音放送を聴いて人々が涙し絶望する、みたいな情景が描かれますが、実はそんな劇的な自覚的経験ではなかったのではないか。当時14歳だった母は、ラジオの音声は何を言っているか全く聴き取れなかったが、周りの雰囲気を見てどうやら負けたらしいと察知した、「気がついてみたら戦争は終わっていた」みたいな感じだったと言っていました。その放心したような感覚は、気がついてみたらマスクとオンラインの世界になっていた、今の状況に通じるものだと考えると、これまでよりも幾分納得できるようになりました。
私たちの大多数は、自分の頭で判断したり原理原則に従って行動するのではなく、周囲の人々がどうするのかを見て、それと同じようにします。そうした集団的な行動パターンは日本的な特徴で、欧米は個人主義だから違うなどと言われたりしますが、コロナ騒動の報道を見ると、基本的には世界中同じだと感じます。進化人類学の教えるところによれば、人々が自分でものを考えず周囲に合わそうとするのは、人々が愚かだからではなく、そうした同調的行動をとってきた祖先が生き残ってきたからです。その結果私たちの多くは、周囲の人と異なる行動をとると、脳に強いストレスがかかるらしい。
しかし一方、周囲とは異なった考えを持ち、あえて異なった行動をとる少数者も常に存在します。自然は単純ではなく、そうした異端的なマイノリティも一定数担保しておいたほうが、変化する環境に適応するには全体として有利だったからではないか、と推測します。
同調的な多数者がおり、異端的な少数者がいる。多少とも安定した環境下では、少数者がいくら警鐘を鳴らしても、多数者の行動はなかなか変化しない。けれども環境の変化がある域値を越えると、多数者の行動はちょっとしたきっかけで、アッという間に変化することも起こる──こうしたことはすべて「自然」の働きであり「必然的」な成り行きです。内部から経験している人々にとっては、自分の運命を決する切実な変化だが、それを外から眺めると、機械的な作動に過ぎない。
「機械論」や「決定論」が切実な問題であることは、それらを単に思想史上のトピックとして外から眺めている時ではなく、現在自分が置かれている状況に適用した時、はじめてよく理解することができます。決断や責任がたえず要求されるのに、自分自身が極めて無力と感じられるような状況──現代における私たちの世界経験とは多かれ少なかれそうしたものです──にある時、私たちは、すべては決定されており自分自身は機械だと考えようとします。そうでもしないと発狂してしまうような気がするからです。
以前書いたあるエッセイの中で、「ゾンビ」という形象は人が自分自身の身体を機械として経験することであり、ゾンビとは生きられたロボットなのだと言いました。ゾンビは美的表象であり美学の対象ですが、それは私たちが、機械的に作動する人工物に取り囲まれて生活している経験の中から生み出され、広く共有されているのだと思います。
それに対して、機械論や決定論を単なる思想史上のトピックとして理解したり、あるいは哲学的な論争ゲームの手段として使用しているだけでは、それらの持つ切実な意味は分かりません。心の哲学という分野には「哲学的ゾンビ」(反応では人間と全く区別できないのに、クオリアとしての意識を欠いた存在)という思考実験がありますが、これは美的に経験されたゾンビとは大違いです。なぜなら、「哲学的ゾンビ」について議論する哲学者本人は、自分自身が「ゾンビ」かもしれないという可能性を本気で考えてはいないからです(いや、考えていると哲学者は主張するだろうが、このことは彼が「ゾンビ」である可能性をむしろ裏付ける)。
機械論や決定論のような問題に関して、ぼくは現代哲学の洗練された議論よりも、17、8世紀ヨーロッパの粗っぽい議論の方が好きです。洗練された議論というのは、同じ分野の同僚たちとの論争に勝つために洗練されていくのであって、その分野の外にいる人たちにも語りかけるという姿勢からは遠くなっていくからです。学問は細分化され洗練されると一見進歩したように見えますが、実はそれだけ現実から遠ざかり、研究対象の世界が現実世界の代理をするようになっていきます。
研究者、専門家というのは元来は愛すべき無邪気な人たちであって、星を観察していて井戸に落ちたタレス(プラトン『テアイテトス』にそう書いてあるけど本当かな)みたいに、現実世界よりも研究対象の世界の方がリアルになってしまう、世間的な成功よりも同僚に称賛されることを好むような人たちです。だから彼ら自身には罪はないのですが、専門家はたいてい現実に対してナイーブなので、現代においては特に、政治的に利用される危険があります。それに比べると、17、8世紀の科学者たちは現実感覚があり結構野蛮なので、油断ならないが教えられる所が深いのです。
そういうわけで、これから少し17世紀の自然哲学や形而上学、そしてカントの批判哲学を参照しながら、今の私たち自身の問題を考えていこうと思います。古典的な思想家や思想について論じる時、私たちはよく「◯◯の現代的意義」などという言い方をして、それらは一見過去の歴史的遺物のように見えるけれど、実は今日においても重要性を持っているのだ、と考えたりしますが、ぼくはそうは考えません。「過去の歴史的遺物」のように見えるなら、そんなものは歴史的関心を持つ専門家に任せておけばいいのです。
すぐに「現代的意義」だとか「アクチュアリティ」だとか言う時、私たちが過去に向ける眼差しは完全に「上から目線」なのです。その証拠に、そうやって過去の思想に私たちが見出した「意義」なるものが、しばしば「何百年も前なのに、現代の◯◯を先取りしていた」というようなくだらないことでしかなかったりします。スラヴォイ・ジジェクがどこかで、「現代から見たヘーゲル」みたいな問題はどうでもいいのであって、むしろ「ヘーゲルから現代はどう見えるか」の方が重要な問題なのだ、というようなことを言っていましたが、むしろこちらの方が共感できます。
人文学を勉強する最大の意味は、現代社会にただ生きてるだけで私たちが知らず知らず陥ってしまう、知的な傲慢を打ち砕くことです。何のためにかというと、もう少し見晴らしをよくするためであり、この世をもう少し生きやすくするためです。人文学など役に立たないと言う人がいますが、それが傲慢であり傲慢に起因する迷妄です。現在のように、世界が全体として大きく変容してゆく時、最も必要なのはあれこれの専門的知識であるよりも、人文学的な陶冶なのです。
今日は疲れたのでこれでおしまいにします。あとで元気があれば質問に答えます。