関西学院大学「美学特殊講義」第3回(6月3日 15:15)
ぼくは、およそ大学の講義というのは、雑談から始めるべきものだと思ってきました。
このことはたしかに、自分が1970年代末の京都大学で学部生時代を過ごしたことと、関係はあるでしょう。まだ学生運動の名残りがあり、ヘルメットにゲバ棒を持った集団が時々授業を潰しに来るような当時だって、雑談など全くせず、あらかじめ用意した講義ノートに従って黙々と授業をする教員も、もちろんいました。けれどもぼくが後々まで尊敬しその講義から何らかの影響を受けたような先生たちは、だいたい雑談から始めていましたね。90分の講義に15分くらい遅れて入って来て、悠々とタバコを吸いながら(昔はどの教室にも空き缶の灰皿が置いてあった)好きなことを話し始め、いったい何時になったら講義に入るのだろうと思っていたら、結局雑談だけで終わった、というようなことも稀ではありませんでした。けれども誰もそれほど不思議とも思わなかったし、文句も言わなかった。
それはなぜなのだろうか。先生が勉強を教えないことがどうして許されるのだろうか。ユルい、古き良き時代であった、というだけでは済まされない問題が、ここにはあると思います。
雑談というのは単なる無駄話ではなくて、落語家が噺に入る前に語る「マクラ」のようなもので、聞き手の反応を見ながら言葉の流れを調整してゆき、ここで入れそうだなという頃合いを見計らうような作業なのだと思います。それによっていわば、日常的な思考の流れと、講義の内容である、ある意味非日常的な、抽象的思考の世界とを媒介していたのかもしれません。たとえば、もしも哲学の先生が教室に入っていきなりノートを開き「さてハイデガーの『存在と時間』における〈世界-内-存在〉とは‥‥」なんて話し始めたら、〈世界-内-存在〉という概念は学生にとって、日常とは全く切断された「勉強」の世界の中だけのジャーゴン(「勉強-内-存在」?)として受け取られることでしょう。
しかし優れた先生はそうはしなかった。パッケージ化された知識内容を伝達するのではなくて、思考の流れを学生たちの目の前で演じて見せる、ということをしていたのだと思います。だから雑談とは言っても講義と全く無関係であるわけではなく、本当は講義内容のことを考えながら、そこに到達するにはどの道を登っていけばいいのか探っているうちに、うまくいけばそれが講義内容につながることもあるが、うまくいかない時も少なくない。まあ、のんびりした話だと言われればその通りなのだが、大学とはそういう場所だと思っていました。
新型コロナウィルスのために授業ができないという今の事態は、ぼくにとってはどこか、そういう自分の学生時代を思い出すような面もあります。新年度が始まっても講義がいったいいつ開講されるのか分からない、開講されてもヘルメット学生が潰しに来たり、ストライキで何週間も授業がなかったり、原因は全く違うけど、通常の講義ができないという点では、ちょっと昔を彷彿させるとこもある。今こんな形で毎週書いているのも、どうせ普通の授業はできないのだから、好きなことをしようという、ヤケクソのような感じもある。が、逆に言えば今のような非常事態になって、これまでの大学の日常には何が不足していたのかがしみじみ分かる、という面もあると思います。
というわけでまた雑談から始めているのだが、雑談といっても、聴いている人たちの顔が見えないと、なかなか雑談風には書けないものですね。顔を思い浮かべて書こうとしても、そもそも新年度が始まってから一度も対面の授業がないので、昨年度から引き続き出ている人以外、お互いに顔を知らないので、思い浮かべることもできない。聞いてみると、普通のオンライン講義でも学生の側はビデオを切ってミュートで聴講していることが多いのだそうですね。教員の側からすると、見えない相手に向かって語り続ける──これは結構ハードな「修行」なのではないでしょうか。
先日、フランスの大学で教員をしている教え子からメールが来ましたが、あちらでももちろん、オンライン授業になっているそうです。しかし日本と比べるといい加減で、途中で書斎に子供が乱入してきたり、時間の半分くらいで終わったりすることもザラだそうです。逆に言えば、日本のようにキッチリと準備して、まるで教育番組のように制作しているのは驚きだと言います。対面授業の何倍も手間も時間もかかるはずです。そして、そうやって一生懸命制作して配信しても、何かとクレームが来るらしい。
日本人はまあ器用な人が多いし、もちろんオンライン授業を楽しんで作っている人もいるとは思いますが、一方では「こんなことやってられるか!」と内心では苦痛に思っている人も、少なくないのではないかと想像します。でも、そういう悲鳴はあんまり聞こえてこない。みんなで一緒に苦労するのが好きだし、みんなが苦労してるのに自分だけ文句を言うということが、なかなかやりにくいのだと思います。
そうしたことを考えると、今の状況は、21世紀になってもいささかも変わることのない、この国の社会の定常的特性を、露わにしている側面もあると思います。たとえば「自粛要請」と「自粛警察」。本来政府は「要請」ではなく「命令」し、その代わり休業補償をしっかりすべきであるという批判は、理屈としては全くその通りだとぼくも思います。けれども意地悪な見方をすれば、日本人は「命令」なんかしなくても進んで自粛するということを、為政者たちはちゃんと知っていたとも思えます。
明治維新の頃、政府は「神仏分離」を命じただけなのに、人々はそれを過剰に「忖度」し、暴力的な「廃仏毀釈」を行いました。日中戦争から太平洋戦争にかけて、政府も軍部も別に英語の使用を禁じたわけではないのに、敵国となった英米の言葉は軽佻浮薄な「敵性語」だから使うのはやめましょうという運動が、町内会など民間から自発的に生まれました。子供の頃、母は美容院でパーマをかけて帰ってくる度に「パーマネントはやめましょう!」という歌をふざけて歌っていましたが、これも戦時中、婦人会などが自発的に行ったキャンペーンだったのでしょう。
現在も、政府は自粛をただ「要請」するだけで、多くの人々はそれに従うばかりか、自発的にパトロールして従わない人を摘発する自警団を組織したりします。それを見て、進歩的でリベラルな「知識人」は、集団主義だ、気持ちが悪い、ファシズムだ、戦時中に逆戻りだ、などと非難します。
たしかに、自粛しないで開業しているお店に張り紙をしていくような行為は、気持ちが悪いなあとぼくも感じます。けれども同時に、そうした行動に走る人々のことを、正気を失った異常な集団であるとは考えていません。彼らはこの近所も住んでいる、まったく普通の人々なのだろうと思います。また、彼らは必ずしも知識がないからそうした集団的・同調的な行動に走るのだとも思えないのです。そうした行動は、私たち教員が、オンライン授業をやるとなったらほとんどの人は文句も言わずに黙々とやっているというこの状況とも、どこかでつながっていると感じられるからです。
こうした「町内会」的なものは、たしかに近代化以前の封建的な共同体のメンタリティだし、それは「お上」に対して無批判に同調的で、ある状況ではファシズムのアクチュエータとして機能しました。それはその通りです。けれども同時に、近代化にもかかわらずなお残存するこうした古い共同体的特性が、自発的な監視システムとして、日本における社会秩序の維持や公共空間の安全性に寄与していることもまた確かなのです。たぶんそうした特性それ自体は善でも悪でもなく、ちょっとしたパラメータの違いによって、おぞましい排除の力にも寛大な包容力にも変化するのではないかと考えます。そしてこの同じ共同体的特性が、ネット空間にもしっかりと根を張っているように感じます。
‥‥やっぱり、あんまり雑談ぽくはならないですね。
とにかく、雑談することに意味があるのは、無駄話をして聴き手をリラックスさせるからだけではなく、それが自然な思考の流れを見せるからであると思うのですが、このことは、前回の講義の最後に話題にした、「技(わざ)」というテーマに直結しているのです(おお、ちょっと無理はあるがたどり着いた)。
「技(テクネー)」とは固有の身体と切り離せない知識のことであると言いました。けれども、もしもそうだとすると、どんなに優れた知識であっても、それは、それを体現した人の身体の死とともに終わってしまい、伝えたり蓄積したり発展させたりすることはできないのではないでしょうか。「技」という形をとった知識とは、そもそもどのように伝達することができるのでしょうか。
皆さんは「ミーム(meme)」という概念を聞いたことがありますか? イギリスの生物学者であるリチャード・ドーキンス(Richard Dawkins, 1941-)という人が、1976年に書いた『利己的な遺伝子』(The Selfish Gene)という本の中で言及した考え方です。「ミーム」はこの本の主題というよりも、どちらかというとついでに思いついたアイデア、みたいに提示された概念なのですが、その後いろんな人が取り上げて発展させ、とても有名になりました。
このドーキンスという人には、だいぶ前に一度だけ会ったことがあります。一般には、宗教を攻撃する原理主義的ダーウィニストで無神論者とみなされていますが、美学的な観点からみると、そうした思想的立場よりも、魅力的で論争的な言葉を作り出す稀な才能に恵まれている点が、注目に値します。ちなみに「無神論」というのは一神教が支配する文化の中でしか意味を持たない立場で、日本人はふつう「あなたは有神論者が無神論者か?」などと尋ねられたら困ってしまいますね。どちらだと答えても、居心地が悪い。たしかに初詣をしたらお賽銭をあげる人もいるが、それは神の存在を信じているからではないでしょう。率直に言えば、「神が存在するか否か」なんてどうでもいいんです。こんな二択は意味を持たない、というのが日本的世界観の基盤です。
ドーキンスの卓越した言語的才能は、「利己的な遺伝子」というこのタイトルにすでに現れています。ドーキンスは生命現象を基本的には機械論的・還元論的に説明しますから、遺伝子の複製とは彼にとって、もっぱら物理化学的な法則に従った自然現象に他なりません。その遺伝子に「利己的」という、強い倫理的負荷を伴った形容詞を冠するのは大きな誤解に導きますが、これは確信犯なのです。「利己的な遺伝子」というフレージングは、一神教をはじめあらゆる目的論的・全体論的思想を攻撃するためのプロパガンダとして機能するからです。
さて「ミーム」もまたドーキンスの創造した概念の中でもヒット作なのですが、明確に定義された概念かというと、全くそうではありません。哲学・思想上の重要な概念というのはしばしば、誰もが同意する明確な定義というものがなく、その意味が大きく揺れており、むしろその「揺れ」のパターンが思考を強く触発するのです。「ミーム」をドーキンスは、生物進化における「遺伝子(ジーン)」のようなもので、文化における遺伝子だと説明します。その例としては、ついつい頭に残ってしまう音楽の一節やキャッチフレーズ、ジーンズの世界的流行などのファッションから、はては政治的信念や宗教といったものにまで及びます。
一見とても分かりやすいことを言っているように見えますが、ここには重大なトリックがあります。そこでは「遺伝子の複製」と「模倣」とが同一視されているという点です。たとえば、「ジーンズを履く」という習慣がまるで遺伝子の複製のように、あるいはウィルスの感染のように広がるようにみえるのは、それを〈外から〉観察している時です。それに対して、(今では想像しにくいと思いますが)1970年代前半の京都で、中学生としてジーンズを履くことには大変な勇気が要りました。家族にも反対され、学校では問題視されました。「不良になるのではないか」と心配されたのです。
それはなぜか。今ではニュートラルなファッションとなってしまったジーンズは、かつては既存の道徳や社会秩序からの「自由」を象徴していたからです。大袈裟に言えば、「ジーンズを履く」という(今では)何でもない行為は、その背後に特定の世界観を背負っていたのであり、この行為の「模倣」は、そうした世界観を肯定し選び取るという決断を意味していたわけです。(ちなみに、いつも講義に遅れ雑談ばかりしていた京大教養部の森毅さんという有名な数学教授は、ジーンズを履いていることで目立っていました。)
「ミーム」というアイデアは、政治イデオロギーや宗教のような重々しいものですら所詮は情報のコピーに過ぎない、と突き放して考えさせてくれる点で大きな解放力がありますが、その反面、「模倣」とは遺伝子のような情報の単位が単に移動したり複製されたりするだけだと誤解させる点で、ミスリーディングです。「模倣」とは何かを単に取り入れることではなく、全身体的に受け入れることなのです。模倣によって身体全体が変化します。学習すること、学ぶことも模倣ですが、それはパッケージ化された知識の取得ではなく、その知識を体現している人格や身体と同じように思考し振る舞おうとすることなのです。
「技」というのは、そうした意味での「模倣」が、長い時間をかけて洗練され高いレベルに到達した状態のことだと考えられます。単に「ジーンズを履くこと」は「技」ではありません。しかし──突拍子もない例をあげるなら──「縄文式土器」を造るのは「技」です。その技術は「特定の目的を実現するための明示的な指示の集まり」には還元できないからです。もちろん、それを「特定の目的を実現するための明示的な指示の集まり」と解釈することにより、何らかの機械的プロセスを通じて「縄文式土器のようなもの」を作り出すことはできます。けれども「縄文式土器のようなもの」は「縄文式土器」ではありません。たとえ見た目で素人に区別できなくても、あるいは専門家でも区別できなくても、そんなことは全く関係がありません。
人工知能をはじめとして、様々な人間の活動が機械によって代行されてゆく現実を見ると、私たちはあたかも身体に根差した「技」が身体を持たない「テクノロジー」によってどんどん置き換えられつつある、大変だと思うかもしれません。はてはレイ・カーツワイルの「シンギュラリティ」のような空想を真に受けたりします。これは間違いです。一般に、過剰に危機を煽る言説には警戒しないといけません。現在の新型コロナウィルスの場合もそうですが、マスメディアや一部の政治家たちは、ひたすら危機を煽ろうとします。それは、私たちのことを思ってしているのではなくて、そうすることが彼らの利益になるからなのです。
「技」がテクノロジーに置き換えられるのは、「技」の中で置き換え可能な側面だけであり、それ以上でもそれ以下でもありません。しかしこれは、非常に興味深いことでもあります。なぜなら、伝統的に「技」として神秘化されてきた人間的活動のかなりの部分が、機械に置き換え可能な指示の集まりに還元できることが明らかになるからです。私たちが「人間的」だと信じてきた活動や能力のほとんどが、実は機械的な動作に過ぎなかったことが分かるのは、実に痛快なことではありませんか。だが一方、それによって人間が終わりを迎え、すべてが機械に移行する、あるいは人類が全く新たなステージに進化するといった、形而上学的妄想を本気にすべきではありません。「ポストヒューマン」は「利己的な遺伝子」のように気の利いたアイデアですが、それはまた別な意匠の「煽り」です。有神論に対する無神論のようなもので、結局のところ思想的には同根だということです。