ロームシアターのリサーチプログラム2018年度の紀要が、リンクからダウンロードできます。ぼくはその巻末に「リサーチプログラムの社会的意義」として以下のような文章を寄せました。
https://rohmtheatrekyoto.jp/wp-content/uploads/f011fa46be35f28d0c6ae49ccbaf86cb.pdf
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公的予算によって行なわれる文化事業は、社会に役立つものでなければならない、というような考え方がある。文化が社会に「役立つ」とは、具体的にどういうことかというと、たとえば観る人に楽しさや感動を与えたり、多数の観客を動員したり、高い評価や賞を受けたり、人々を元気にしたり、道徳的に向上させたり、国家の威信を高めたり、等々といったことであろうか。
だが実際には、普通の意味では楽しくも感動的でもなく、来場数も限られており、評価も定まっておらず、観ると気分が落ち込むような、あるいは反道徳的な、また国家批判的な内容を持つ美術作品や演劇作品も、少なくないのである。表現の自由があるとしても、そうしたものは公的予算を使わず、自分の金で勝手にやれ! と思っている人もいることだろう。こうした気分は一見もっともらしい意見にみえるかもしれないが、「公的」であることや「役立つ」ということの意味についての根本的な誤解に由来する、大きな誤りである。
娯楽や感動は自然に観客を呼び寄せるので、そうしたことを目的とする作品なら、むしろ公的予算を使わなくても、私的な事業、商売として成り立つのである。また、評価というものには時間的スケールがあり、本当に価値のある作品が同時代に高評価を受けるとは限らない。私たちが歴史から学ぶのは、文化や芸術における重要な達成は、むしろ同時代には無視されたり非難されていた企てであった場合が、少なくないということである。
芸術作品が人を「元気にする」というのも、どこか怪しい。人間とはそんな単純なものではないからである。深刻に落ち込んでいる時、私たちは「元気を与えてくれるものを観たい」なんて思うだろうか? むしろ、もっと暗い何かを通して自分の絶望を注視したいと切望し、絶望を通してのみ生きる力を得ることだってある。また道徳や国威の発揚にしても、「いかにも」と思えるような同調的表現は、かえって道徳を壊し国家を貶めるだけである。本当の道徳的陶冶や国家的理想に到達するには、否定的なものを通過して行かなければならない。
美術や演劇は「自己表現」であり、社会には役立たなくても芸術的に価値があるのだ、というような考え方も、やはり間違っていると思う。そんな風に社会から切り離されると、芸術は衰退してゆくだろう。役立たないのではなくて、役立ち方が娯楽産業のそれとは違うだけなのであり、この点を理解することが肝要だ。即効性の利益を生み出す文化は市場に任せておけばいいのであって、社会に役立つために長い時間を要し複雑な機序を経る文化的試みにこそ、積極的に公的予算を投入する意味があるのである。
美術や演劇について、とりわけその現場に即して行われるリサーチ活動の目標と意義は、芸術と社会との間のそのような、単純で即効的ではない真に豊かな関係性を、ハッキリと目に見える形にしてゆく点にあるのだと思う。本リサーチプログラムの2018年度の研究成果も、こうした目標に向かって着実な一歩を進めえたものと確信している。
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