今年も大学を見学に来た高校生たちのために特別講義をしました。
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タイムマシン解体
Disassembling time-machine, あるいは「時間」とは何か?
(2019年8月2日 福岡明善高校施設見学のための特別講義)
ぼくの研究している「美学」というのは、感性による世界や人生の経験について、哲学的に考える学問のことです。今回は「時間」というテーマを手がかりにして、この美学というものの紹介をしたいと思います。まず、とても有名な次の引用を読んでみましょう。
時間とは何であるか。だれもわたしに問わなければ、わたしは知っている。しかし、だれか問うものに説明しようとすると、わたしは知らないのである。(アウグスティヌス『告白』第11書 第14章)
今から1600年くらい前に、ヌミディアのタガステ(今でいうとアルジェリアのスーク・アフラース)で産まれた、アウグスティヌスという哲学者が書きました。さてこの文章は、時間とは何かを自分は知っていると言っているのでしょうか、それとも知らないと言っているのでしょうか?
この文章から読み取れるのは、私たちが知識だと思っているものに関して、ふたつの様態があるということです。ひとつは「説明できる」ということ、もうひとつは「知っている」ということです。これらふたつは、同じではない。ということは、「説明できるけれども知らない」こともあれば、「知っているが説明できない」こともある。「時間」とはこの後者の場合に当たる、とアウグスティヌスは言っているわけです。
「説明できるが知らない」こととは何か? 現代の私たちは、インターネットに代表される情報社会に住んでいます。たいていのことは検索すれば、何か説明が出てきます。だから、私たちは多くのことを「知っている」と思い込んでいる。たとえば「戦争」とは何か、それがどんな原因で起きるのか、それを防ぐにはどうすればよいか、勉強すれば私たちは説明できます。それならば私たちは戦争とは何かを「知って」いるのでしょうか? 本当に知っているなら、なぜ戦争を止めることができないのか。現に戦争があるという事実は、私たちが戦争とは何かを本当は知らないということを示しているのです。
「知っているが説明できない」こともたくさんあります。自転車に乗れる人、泳ぐことができる人、外国語が話せる人、等々のほとんどは、どうしたら自転車に乗れるのか、どうしたら泳げるのか、どうしたら外国語が話せるようになるのかを説明できません。それらを説明できるためには、説明するための特別な訓練を受けなければなりません。また、学校教育を受けなくても、賢明な人は人生から多くのことを学んで知っています。けれども必ずしも説明することはできません。説明できないからといって、その人が何も知らないと思い込むのは大きな間違いです。
「時間」のテーマに戻りましょう。時間にも、知っているが説明できない側面と、知らなくても説明できる側面とがあります。内側から経験される時間は、説明することができません。なぜなら、「説明」とは経験そのものの「外」に立つことによって可能になるからです。今から100年くらい前に活躍したアンリ・ベルクソンというフランスの哲学者は、内側から経験される時間について語るために「純粋持続」という概念を作りだしました。それに対して時間を「外」から観察すると、それを分割し、測ることができます。これが科学的・工学的な時間であり、近代以降の世界において私たちの常識をも支配している「量」としての時間です。
タイムマシンは空想上の装置ですが、それによる時間旅行を表現するためにはよく時計が使われます。時計の文字盤それ自体は時間ではなくて空間です。つまり時計とは、時間を空間上の位置の変化として図式化し説明するための道具なのです。時計はタイムマシンとは異なり、もちろん日常的な道具なのですが、時間を空間として表象するための装置としては、時計とタイムマシンとは同じものなのです。
「タイムマシン」という言葉の由来となったのは、哲学者のベルクソンとほぼ同時期に生きたイギリスの作家H.G.ウェルズの小説です。タイムマシンを視覚的に表現するためには、それに何か形を与えなければなりませんが、映画「タイムマシン」ではこんな形をして現れます(スライド参照)。つまり自転車あるいは自動車のような、空間移動をするためのヴィークルですね。ドラえもんのタイムマシンは空飛ぶじゅうたんに操縦席が付いたような形をしていますが、これも似たようなものです。ようするに、時間移動は空間移動としてしか表象できないのです。
「タイムマシン」という言葉をあらためてよく味わってみると、これはよくできた概念だと思います。表層的には、それは時間をまるで空間のように航行する機械という意味なのですが、同時に、タイムとはマシンである、と言っているようにも響きます。つまり、時間とは機械のように、パーツから組み立てられた空間的な構造体である、ということです。空想上はタイムマシンが、日常的には時計が、時間を空間化するための仕掛けとして機能してきたと言うことができます。ウェルズの小説『タイムマシン』のヴィジュアルにも、よく時計が使われてきました。
さて、みなさんは高校生なのでたぶん大学入試も気になるでしょうから、ここでひとつ英語の過去問を解いてみましょう。
On the evening of 15 February 1894, a man was discovered in the park near the Royal Observatory at Greenwich in a most distressing condition: it appeared that he had been carrying or otherwise handling some explosive which had gone off in his hands. He later died from his injuries. The fact that he had been in Greenwich Park naturally provoked speculation: was he attempting to blow up the Observatory? Around this puzzling and ambiguous incident Joseph Conrad constructed, in The Secret Agent, a story of a double agent who had been instructed by a foreign power to blow up the Greenwich Observatory and so provoke outrage at what would be perceived as an attack on science or technology itself, the idea being that this would be a much more subtly unsettling attack on society than any assault on a prominent individual or group of innocent people.
By 1894, Greenwich had acquired a peculiar significance: it not only marked 0°longitude, it also stood for the standardization of time. For much of the nineteenth century different towns in Britain kept their own time, and travellers from one place to another would often have to reset their portable timepieces on arrival. But the development of the railways made it increasingly important to dispose of these local variations, and 1852 saw the introduction of a standard 'Railway Time,' as it was called. Finally in 1880, Parliament passed the Definition of Time Act, which introduced a universal time, this being defined by the time on the Observatory clock at Greenwich. This, as we might imagine, could well have induced in some quarters the same resentment as the idea of a single European currency does in others today, though whether feeling ran sufficiently high as to motivate the blowing up of the Observatory is a matter for debate.
(大阪大学 2007年度入学試験問題より)
1894年2月15日、グリニッジ王立天文台近くの公園で、大怪我を負ったひとりの男が発見されました。状況からすると、彼は爆発物を運んできたようで、それが手に持っている間に爆発したらしいのです。怪我がもとで男は死んでしまいましたが、彼がグリニッジ公園で発見されたことから、いろんな憶測が生まれました。この男は天文台を爆破しようとしていたのではないか? けれどもいったいなぜ? この事件にインスピレーションを受けて、小説家のコンラッドは『シークレット・エージェント』という作品を書きました。1894年頃には、グリニッジ天文台は科学とテクノロジーのシンボルとして、あるいは経度ゼロの基準点としてばかりではなく、時間の世界的標準化(グリニッジ標準時)のシンボルとしても重要な存在になっていました。したがってそれを爆破するという行為は、科学とテクノロジーおよびそれによって標準化される近代社会そのものに対する象徴的なテロという意味を持っていたのです。
私たちはデジタル情報テクノロジーに取り囲まれているために、量的に標準化された世界を当たり前のように経験しており、量的な標準化とはそもそも何か?ということが分からなくなっています。こうした根本的問題を考えるためには、高度に発達したテクノロジーのイメージではなく、それが生まれた当初のイメージを使って考えることがしばしば役に立ちます。たとえば、電子的な通信網が普及する以前の18世紀末から19世紀中葉にかけてのヨーロッパ、特にフランスにおいて「セマフォール(sémaphore)」と呼ばれる腕木通信システムが普及していました。これは腕木の組合せで文字を表し、それを望遠鏡で視覚的に確認することによって、文書を物理的に運搬するよりもはるかに高速度の伝達を可能にしたものです。日本でも18世紀半ば、これを使って米の相場を知らせていたことを示す記録があります。
さて、時間の量的標準化とは、たんに科学や社会生活だけの問題ではありません。芸術においても同じように問題となるのです。たとえば、物語、文学における時間。ウェルズの『タイムマシン』以降、量的な時間移動は物語の中でますます多く用いられるようになり、現代の物語ではタイムトラベルはそれ自体まったく目新しくもない当たり前のモチーフのひとつになりました。けれどもそればかりではなく、近代小説における「語り手」が作り出す時間の問題もあります。19世紀には科学的世界観の影響を受けて、まるで実験室の中で虚構世界を作り出すかのようなリアリズム文学が流行りました。そこで語り手は、物語の客観的な時間の流れを管理する神様のような存在になります。
ロシア文学を例にとって言えば、トルストイやツルゲーネフのような地主貴族出身の作家たちによる物語は、登場人物の内的な経験よりも高次に、ドラマが進行する標準化された時間の流れがあります。物語を娯楽として、あるいは美的な鑑賞の対象として楽しもうとする(ブルジョワの)読者たちにとっては、そうした安定した時間の流れがあると安心なのです。現代で言うなら、どんなメッセージや出来事でも「コンテンツ」として安全な距離から見ていられる、テレビやビデオといったメディアの「フレーム」に相当します。
それに対して、そうした標準化された時間の支配をいわば「爆破」しようとするのが、ドストエフスキーの作品です。ロシアの有名な批評家ドミートリィ・リハチョフは、語りの時間と語り手の役割という視点から、ツルゲーネフとドストエフスキーとを比較していますが、そこでは日本の浄瑠璃にも言及されていて、とても面白い、重要な指摘であると思います。
「ドストエフスキーとごく近い時代の先行作家や同時代の作家たちは時間を描くのに、一つの、しかも不動の視点から描いた。語り手はあたかも読者を前にして想像上の快適な肘掛け椅子(いささか地主貴族風の、例えばツルゲーネフに見るような)に腰をすえて、自分の物語を、発端と結末を承知の上で、語り始めたといった感じである。作者はすでに発生し、すでにその結末を有している出来事についての目撃者の確固としたゆるぎない位置を作者自身が占めて語る、そのような物語を作者は読者に聴かせたいかのごとくである。」(D・リハチョフ「文学‐現実‐文学」1984、90頁)
「ドストエフスキーの小説の語り手というのは、しばしば約束上のものである。彼らの存在についてはある程度、忘れる必要がある。それはほとんど日本の人形芝居に見られるようなもので、黒衣を着た俳優たちが人形を観客の目の前の舞台で操るけれども、観客たちは俳優たちを目に留めてはいけないし、また目に留めもしない。演じるのは人形である。人形は時として、生身の俳優たちよりも過剰な演技をする。人形を動かす人々を登場人物と解してはいけない。ドストエフスキーの作者と語り手というのは前舞台にいる召使で、読者が出来事全体をそれぞれの場面で最もよい位置から見られるように手助けする。そのために彼らはせわしく動きまわる。」(同、93頁)
ツルゲーネフもドストエフスキーも知らない人にとってはピンと来ないかもしれませんが、同様のことはあらゆる演劇や講談、落語のような語り芸についても言うことができます。つまり、体験や出来事を安定した時間の流れに置き、それらから安全な距離を保って表現するか、それとも体験や出来事の内部に踏み入って、安定した語りの時間が破壊されるリスクをあえて引き受けるか、ということです。後者は危険を伴いますが、そうした冒険をしないと見えてこないリアリティというものがある。いわばこれが、「知っているが説明できない」ものを表現するやり方です。
結論。私たちは標準化された近代的時間(〈時間=機械〉という意味でのタイムマシン)に支配されていますが、それを象徴する施設(グリニッジ天文台など)を物理的に破壊しても、そこから逃れることはできません。暴力的破壊行為、殺戮やテロは、それらが人道的に許しがたいことは別にしても、根本的な意味において、その目的を達成することはできません。なぜなら、政治にもテクノロジーにも芸術的な次元があり、芸術的次元においては、破壊行為は常に同時に自分自身にも向かっていて(対称性)、つまり破壊行為はそれが敵とするものと同じ世界に属してしまうからです。こうした抽象的思考に慣れていない人は頭がクラクラするかもしれませんが、ゆっくり時間をかけてこのことを理解するのはとても大切なことです。タイムマシンを根本的な意味で解体できるのは、芸術(政治やテクノロジーの芸術的次元をも含めて)だけなのです。