アートは一見無力にみえるけれども、そしてこの世の実効的な力としては実際無力なのだけれども、まさにその無力さのゆえに、何らかの闘争の道具として用いられることも、稀ではない。それは、今に始まった事ではない。
アートは、真理――というと身構える人もいるが、そんな深遠なことを言おうとしているのではなくて、ようするにこの世の相対的な価値基準、現在たまたま通用している常識や政治的配慮の影響から離れた、何か絶対的なもの――に直感的に呼びかけるために、現世的な力を諦めることである。だからアートが「力」を持つとしても、それは政治的な力とは別種の力能である。
だがまさにそうした、政治的な相対的力を越えた質を持つがゆえに、アートには政治的な利用価値が発生する。だからアートは、この世の出来事であるかぎり、必然的に政治に巻き込まれる。これを避けることはできないし、避けられると思うのは幻想である(つまり「非政治的なアート」というのはそれ自体が政治的な意味を持ってしまう)。
そのことは十分解って覚悟しなければいけないのだけれども、それでも、アートそれ自体の持つ「力」が政治的な力ではないことを知っておくことは大切である。アートの力とは、いわば力の放棄によってのみ獲得される「力」なのである。
「表現の自由」というのは政治的な問題であって、アートの問題ではない。アートは「表現の自由」を主張するために行われてはならない(「ならない」というのは禁止ではなくて、端的にそうするとアートでなくなる、というだけのことである)。もちろん、アートが結果として「表現の自由」に関わる問題を引き起こしてしまうことはある。現実には、もしそうした問題が起こったら、それに関わる人々は政治的闘争に巻き込まれ、闘わざるをえなくなる。
アートの「自由」を守るために? それは違う。アートは本来自由な活動であって、その自由は法律によって保証された「表現の自由」とは異なる。「表現の自由」は、アートを公的な展覧会などの場所で多くの人に提示するためには必要な要件かもしれないが、アートの自由それ自体を守ることはできない。むしろ、ひたすら「表現の自由」を目的とすることで、アートの自由を損ってしまう(アートがひたすら政治的なものとして現れてしまう)ことだってありうる。
もちろんアーティストにも(キュレータにも)極めて政治的な人、政治的意識を持っている人もいる。そうした人々の作るものには、当然政治的なメッセージが込められることになる。それでもその作品がアートであるとすれば、それは、そこに何か異世界から飛来したとしか思えないような質が加わるからだ。アーティスト自身は戦略的に作っているかもしれないが、アーティストの身体がそれを裏切るのである。アートの自由は、表層の政治的メッセージには邪魔されない。
アートと戦略とは同じものではない。もっぱら戦略として理解されるとアートは消滅する。それはアートが高尚なものだという意味ではなく、端的に、政治的・戦略的思考とは別な秩序によって成り立っているということに過ぎない。