18世紀(欧米・日本ともに)について、若い頃とは違った仕方でよく考えるようになったのだが、それは200年以上前のことに歴史的興味があるからではなくて、むしろ18世紀の人々から見て、私たちが生きているこの現代はどんな風に見えるのだろうか? と想像してしまうためである。二つの時代の間には大きな断層があるとも思えるし、意外なところで繋がっていると思ったりもする。
たとえば芸術に関する考え方において、18世紀の欧米と今とでは、どこが大きく違うだろうか? いくらでも現象面での違いをあげることは可能だけれども、案外見過ごされているひとつの重要な違いは、かつては芸術創造が「白人の優位性」を示すためによく引き合いに出されていたということである。
このところ、トランプ大統領が人種差別主義者だということが問題にされている。それはもう、確信犯的にその通りだと思うけれども、それでは歴代の(オバマ以外の)アメリカ大統領は、トランプほど人種差別的ではなかったのだろうか?
先月末、The Atlantic というアメリカの雑誌が、ニクソン大統領が当時はカリフォルニア州知事であったロナルド・レーガンと電話で交わした会話の内容を取り上げて話題になった。1971年のことである。レーガンは国連でアメリカに反対票を投じた黒人の代表者たちを揶揄して「あのアフリカの猿ども」などと言い、それにニクソンは大笑いして同意した、とある。
白人男性であるアメリカ大統領の多くは、残念ながらトランプと同じように人種差別的であり、白人至上主義者だった。違いは、かつての大統領はそれを私的な電話で密かに洩らしていたが(といっても大統領の電話は記録され数十年後に公開されるので私たちと同じ意味で「私的」とは言えないが)、今の大統領はツイッターやマスメディアで公然と、臆面もなく表明しているという点にすぎない。
それでは、もっと昔の大統領は高邁な理想を語っていたのだろうか? 18世紀のアメリカ第3代大統領トマス・ジェファーソンは、自ら起草した「独立宣言」においては「人は皆平等に創られた」と書いているにもかかわらず、1785年に出版された著書『ヴァージニア覚書』においては、あからさまに人種差別的な見方を表明している(もっとも当時黒人は人間ではなく「モノ」とされていたから「人権宣言」の文言が偽りであるとは言えない)。
もちろんそれは、公民権運動どころか奴隷解放のはるか以前であり、初期の大統領たちは自身が大規模な奴隷所有者でもあったので、彼らの人種観を現代と同じ基準で非難することはできないだろうが、そこで注目すべきことは、彼らが白人の人種的な優位性を主張するのに、しばしば「芸術」に訴えていたという点である。
「黒人は美術も詩も創ることはできない」とジェファーソンは『覚書』で書いているが、これは彼の独創的な意見ではなく、当時の白人中心主義的な言説の定型句のひとつであったようである。18世紀アメリカの黒人奴隷たちは、美術や詩のための教育どころか人権すら与えられていないのだから、白人文化における「芸術」に与ることがないのは当前なのだが、そのことが人種的な劣性として語られていたということである。
それに対して、トランプ大統領がいくら人種差別主義者でも「黒人には詩が創れない」とは言わないだろう。現代では、白人至上主義者の誰が「白人は芸術を創造しうるゆえに優れている」などと大マジメに主張するだろうか? 「芸術」は、白人文化の優位性を示すしるしとしては、もはや使えなくなってしまった。それはよく言えば、人種差別的な支配の言説から「芸術」が切り離されたということであるが、同時に、「芸術」という理念と支配権力との結びつきが切断され、「芸術」が政治的に無力化されたということでもある。
18世紀の人々は、ある時はとても素朴で無知(インターネット環境にいる現代人から見ると、驚くほど何も知らない)に見えるかと思うと、ぼくには到底見透すことのできない、そこ知れぬ洞察力を感じる時もあって、油断がならない。死者たちだけが、私たちが今どんな世界に生きているのかを教えてくれるのである。