以下の文章は、2018年11月16日に群馬県前橋市で開催されたシンポジウム「文化芸術による社会包摂は可能か?」において行った講演の原稿です。
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芸術領域における「実践ありき」主義を再考するというこのシンポジウムの趣旨に、ぼくは強く共感しました。実践から距離を取ることは、何よりも、将来のより良き実践のために必要不可欠である、というよりむしろ、そのことはそもそも実践それ自体と不可分であると、常に思ってきたからです。
実践から距離を取るとは、つまり「理論」ということですが、理論というのは、実践と対立する活動ではありません。言い換えれば、それ自体が何らかの実践でないような理論はありません。
それに対して「実践ありき」、実践「主義」というのは、そもそも何か? それはつまり、「やってみれば分かる」「やらないで何が分かるのか?」といった考え方を一般化する、ひとつの「理論」のことです。けれどもそれは、同語反復的な、とても貧しい理論です。
実践「主義」は、自分自身がそうした貧困な理論でありながら(あるいはそうであるがゆえに)理論を恐れています。理論一般を軽蔑し、理論など不必要だと宣言したがります。そもそも実践主義の何がいけないのでしょうか? 「実践ありき」によって見えなくなってしまうのは、「自分はやってるんだから」という自負によってまさに覆い隠されてしまう認識があるということです。
実はこのことは、芸術領域に限られたことではありません。現代の私たちが生きている、合理性と効率に支配された世界の中では、どんな活動でも基本的に「実践ありき」になってしまうのです。科学も、政策も、経済も、日常生活に至るまで、「効率」と「成果」(それも短期間に明示できるような成果、「エビデンス」などと言われる)だけが指標となっています。
だからこそ、次のことを最初に確認しておきたいと思います。「実践ありき」とは、ひとつの貧しい、しかも閉じた理論に他ならず、それはやがて実践そのものを損なうということです。私たちが必要としているのは、即効性によって人目をひく「実践」ではなくて、耐久性のある、真に優れた「理論」です。その意味で、こうした機会は大きな意義のあるものだと考えます。
このシンポジウムのテーマである「社会包摂」が理念として明記されているという「文化芸術基本法」を読みました。たいへんに立派なことが書いてある。ぼくにとって、ひとつ気になることがあるとすれば、それは「文化芸術」という用語です。
「文化」は分かる。「芸術」も自分なりに理解しているつもりですが、「文化芸術」と結合された概念を、ぼくは聞いたことがありません。これは単一の概念なのか? それとも文化「と」芸術なのか?「文化」では広すぎるので、芸術とその周辺にある文化、というくらいの意味だろうか? (でもそれなら「芸術文化」という語が存在する)。それとも「芸術」だけだとエリート主義的(「分かるヤツは分かる」的)に響くので、伝統芸能、大衆芸術や「メディア芸術」も含めた芸術系の文化全体ということでしょうか?
いろいろ考えてみましたが、今のところ理解できたのは、「何が芸術で何がそうでないか」みたいな議論を始めるとキリがないし、かつて非芸術だった領域(写真や映画、マンガなど)が芸術の仲間入りすることは歴史上よくあることだから、将来の拡張をも見越して、とりあえず法律として運用するために、ザックリと「アート系」「芸術系」みたいなものを包摂したのが「文化芸術」という用語ではなのではないか、と想像します(「系」ではいくらなんでも法律用語になりませんからね)。
そこまでは分かりました。けれども「文化芸術」は、それを用いてちゃんと物事を考えることのできる概念ではありません。だからぼく自身は用いません。「文化」と「芸術」とはハッキリと異なった概念(異なった来歴を背負い、異なった方向を向いている概念)ですので、ぼくはあくまでそれぞれの意味で用います。言葉はぼくの命なので厳密に扱いますが、もちろん気にならない人はこの点は無視してくれてもかまいません。
さて、それでは「社会包摂」ということについて考えてみたいと思います。まず確認したいのは、これは多くの人にとって、聞き慣れない言葉だということです。もちろん言葉は常に変化していますから、私たちは長く生きていると、当然聞き慣れない言葉にも出会います。
とはいえ「社会包摂」は、流行語とか若者言葉のように、自然発生的に「下から」生じてきたものではありません。それは特定の政策に伴って「上から」降ってきた言葉です。言い換えれば「今は(これからは)これが重要なのだゾ」というメッセージが、この言葉の背後に聴き取れます。だからいけないと言いたいわけではありません。ただ、「重要」と上から言われたからといって、そのまま鵜呑みにすべきではないと思います。
そうかといって、やみくもに拒絶するのも間違っています。上からであろうが下からであろうが、言葉が生まれるには理由があります。だからそれが何を意味しているのかを、注意深く考えることが重要です。さて「包摂」とは何か? それは日常語ではない。こうした語は、大抵の場合西洋的概念の翻訳語です。「社会包摂」も”social inclusion”という概念の訳語です。けれども英語においても、”social inclusion”は日常語ではなくどちらかというと行政的な用語なのです。
「社会包摂」という人工的な用語を、この概念自体の内部から理解することは困難です。それは「社会的排除 social exclusion」の反対語です。「包摂」は意識的に行われる施策ですが、「排除」は一般的現象です。つまり「排除」の方が、はるかに普遍的な概念なのです。だから「包摂」は「排除」からしか理解できません。「包摂」とは何か? を理解するためには、「排除」とは何かを理解しなければならないということです。
「排除」「社会的排除」とは何か? そんなことは事実として明らかではないか、と思う人もいるかもしれません。歴史を回顧すれば、人間はその社会の支配機構の中で、弱い者を排除してきた。つまり外国人、女性、下層階級、障害者、高齢者、等々です。
けれども「弱者だから排除した」というのは、本当は正しい言い方ではありません。「弱者」というのは、当たり前に存在するカテゴリーではないからです。自然界には「弱者」はいません。人間の世界においても、私たちのうち誰が「弱い」のかは、自然に決まっているわけではありません。順序が逆なのです。「弱者だから排除した」のではなく、「排除されたから弱者になった」のです。つまり「排除する」という行為が最初にあり、「排除」が「弱者」を作り出すということです。
「排除」をどう理解すればいいか? ここで、個人的な話をすることをお許しください。ぼくはこのお仕事を引き受けた時、この場所がふつうの大学や公共施設のホールではなく、「特別養護老人ホーム」であることに強くひかれました。
ぼくは、実の父は早くに失い母は2年前に自宅で看取ったのですが、その直後に義理の父母が自力で生活が困難になり、現在ぼくの自宅近くにある病院や施設に移しました。週に何度か訪問し、時間がある時にはご飯を食べさせる等介護の真似事をし、「忙しいのによく来てあげられますね」などと介護士の人に褒められ、「それじゃあまた来るからね」といって家に帰るという、現代ではぼくの年代の多くの人が経験しているであろうそうした日常を送りながら、そもそもこれは一体何をしているのだろう? という疑問が、ずっと頭を去りません。
これがまさに「排除」ということではないか、とぼくは感じているのです。もちろん、現代ではそれは誰にも責められるようなことではありません。認知症で排泄の処理も自力でできない義父母をもしも自宅に引き取って世話をしたら、ぼくは現在の仕事を継続することはできません。家もひとつの社会だとすれば、親を自宅介護するという「社会包摂」によって、ぼくの家という「社会」は崩壊するかもしれません。
ぼくがやっていること、大学で教えたり論文を書いたりする仕事は、一般に意味のあることだとされています。それに対して死にゆく親の介護は、それ自体が意味のあることだとは思われていない(もちろん道徳的な義務だという観念はあります。あえてそれを引き受ける人が偉いと言われたりするけれども、それはあえて自己犠牲を厭わないがゆえにエライ、というようなニュアンスが強い。)だから現代では一般に、介護が必要になった親を施設に入れるのは、その金銭的余裕があるなら当然のことだと思われるでしょう。
それが間違っていると言いたいのではありません。また親は自宅で看取るのが当然だった昔に帰るべきだと言いたいのでもない。言いたのは、「排除」というのは何も「部落差別」であるとか「ホロコースト」であるとか、悲惨で暴力的な歴史上の事例に限られるわけではなく、現代の私たちの日常生活の中に、ごくふつうに存在しているものでもあるということです。
だから「排除は悪である」と単純に考えるのは間違っています。排除は、およそ文明というものが存在するかぎり存在するものです。そして、歴史の本や映画や小説などに取り上げられがちな排除、私たちに強い義憤を感じせ、人類の愚行に怒り涙させるような悲劇的な「排除」よりも、私たちが当たり前の日常だと思っている、合理的で非暴力的な「排除」の方が、その量においては圧倒的に膨大である、ということは認識しておく必要があると思います。
「非合理な排除」よりも「合理的な排除」の方がより一般的な問題であり、この世界は今後ますますそうなってゆく、ということは知っておく必要があると思います。もちろん世界には今だに、様々な歴史的経緯、民族や宗教、身分や貧富の差、性別や性的志向、等々の「非合理な」理由のために排除や暴力の犠牲になっている人々は多数存在します。しかしグローバル資本主義の進展と新自由主義の拡大とともに、排除は少しずつ、より単純で「合理的」なものへと統合されてゆくように思えます。
排除の「合理的」な理由とは、社会、といっても曖昧なのでとりあえずは国家全体の利益を基準にするということです。それは明示的に数値化可能な「生産性」という基準です。「LGBTは生産しない」と言って炎上した事件がありましたが、この場合の「生産」とは、子供を産むという明示的な指標によるものです。
この指標に従うなら、その子供たち自身は生産しません。しかし将来生産者となるがゆえに価値がある。それに対し高齢者はもはや生産しないから、その存在自体には価値がないということになります。だから高齢者の生存は対処すべき「問題」として扱われます。障害者の場合も同様です。高齢者の多くは(自分も若い時には障害者を差別していたために)「自分は障害者ではない」と考えがちですが、生産しないという点では同じなのです。
そんなことを言うと、いやいや生産性がすべてではない、人間はその存在自体に価値があるのだ、と反論したくなるでしょう。ぼくも強くそう感じます。けれども同時に、そうしたヒューマニズムの主張は、今の世界では決定的に弱いとも感じます。つまり、世界のすべてが功利主義、効率主義で動いているのに、その中で「人間だけは違う」という主張に、説得力がなくなってきたということです。
このことを明確に考えるために、誰もが知っているひとつの事件をとりあげたいと思います。それは今から2年前の2016年に起こった、神奈川県相模原市の障害者施設殺傷事件のことです。とりあげたいのは事件そのものではなく、この事件がなぜ多くの人に強い不安をかき立てるのかということです。
もしもこれが、狂人による異常な猟奇殺人にすぎなかったら、事件そのものはいくら恐るべきものであっても、私たちはこれほどまでに不安になることはなかったと思います。この事件の特徴は、それがまるで私たちの無意識を言い当てているように見える点にあります。犯人は、自分の名前も言えず応答もできないような障害者には生存する意味がないという、きわめて「合理的」な理由に基づいて殺害を行ない、そのことをあらかじめ国の指導者たちにも予告し承認を求めています。そして犯行後もまったくその信念を変えていません。
もちろんこんな犯罪は許しがたいと私たちは強く感じるが、その時、合理性が至上命令である世界において「人間だけは違うから」と言うのでは弱いのです。なぜなら、例えば私たちは具合が悪くなって病院に行っても、自分の身体が徹底的にモノとして検査され治療されるのを経験するからです。鬱病など心の悩みがあっても、それは神経伝達の障害であり薬で改善しなさい、と言われる。つまり、人間もまたひとつのモノ、機械に過ぎないことを、思い知らされているからです。しかも「善意」と「合理的な説明」によって。だから反論できません。
相模原の殺傷事件は、ナチスドイツ的な優生思想やヘイトクライムとの関係がしばしば指摘されてきました。つまりそこにあるのは、弱者、つまり生産できない人間や他人に迷惑をかけるだけの人間は処分した方が社会(国家)のためになるという考え方です。けれども、よく調べてみると、実はここには、それ以上の問題があります。
犯人は事件後の取材の中で「意思疎通のできない人間は生きていても仕方がないから安楽死させるべきと考えた」と答えました。呼びかけて、自分の名前が言える人は殺さなかったといいます。この冷静さは、狂気にかられた衝動的虐殺よりはるかに恐ろしいものです。
意思疎通ができ、そこに人格の存在を感じられるなら、たとえ生産性がなくても人間としてリスペクトされるべきだということに、多くの人は同意するでしょう。しかし、意思疎通が不可能である相手に対してはどうか? 呼びかけても返事が返ってこないような相手を、どうやって社会に包摂することができるでしょうか?
ぼくはこの点に、「芸術」の存在する意味があると思っています(最初に言ったように「文化」というのは広過ぎるのでぼくは「芸術」と言います)。芸術とは、たんに美しいものを創り出したり感性を豊かにするだけの活動ではありません。それは、絶対的に沈黙している他者、意思疎通の不可能な相手に対して呼びかける方法でもあります。なぜかというと、「芸術」はその始まりから、人間を越えたモノの世界、つまり「自然」と不可分だからです。
ここで「自然」と言っているのは、エコロジー的な「母なる自然」のような、ロマンチックに人格化された存在ではなくて、物理化学的な法則によって作動する自然、自然科学が対象にしているのと同じ自然です。自然は変異を生み出します。人間には、生まれつきあるいは事故によって、また加齢によって、身体的・知的な障害が生じます。逆にまた、生まれつきあるいは何かの偶発事によって、人並み外れた能力や驚くべき創造性を獲得する人もいます。障害は問題とされ、天分は誉めたたえられますが、それは人間界においてだけのことで、自然界においては、それらはまったく同等の変異です。芸術とは、人間的な価値を超えたそうした変異や出来事を、人間的な価値の世界へと媒介することであると理解できます。その意味で、芸術とは「人間の中に入り込んだ自然」であると言うこともできます。
私たちは、社会の至るところに「合理的な排除」が浸透してゆく世界に住んでいます。そこで社会包摂とはどのようなことであるうるか? たんに排除をしなければ包摂したことになるのではない、とぼくは思います。たとえばぼくが仕事を辞めて認知症の親を家に引き取れば解決するわけではない(もちろんそうしてもいいし、する人にはちゃんと理由がありますが)。重要なのは、排除について、人間とモノ(機械、自然)との関係について、答えない相手に呼びかける仕方について、根本的に考えながら実践することです。ここに芸術の存在する意味があると思います。芸術による社会包摂という問題を考える時、芸術はたんに「社会包摂」に役立つ、というような外在的な関係にはありません。芸術とはその本質においては、個性や自己の表現ではなくて、深く思考すること、ロゴス(言語的論理)よりも深層の、自然と接触する(あるいは入り組み合う)レベルにおいて、思考することだからです。