…と、あえて断言したくもなるほど、現代社会ではスノビズムは蔑まれている。
「スノビズム(snobbism)」という言葉は日本語では「俗物根性」などと訳されているけれども、ちょっと違う(「俗物根性」というのも現代では正確に何を指すのかよく分からないのだが)。スノビズムというのは、自分が現実に属しているよりも上の階級に属しているかのようにふるまう態度のことである。たとえば平民が貴族のふりをしたり、庶民がブルジョワの真似をするといったことだ。でも上の階級を全面的に偽装するのは難しいので、せめてそれらしい話し方をする、というのがスノビズムである。『おそ松くん』のイヤミみたいに、海外に行ったこともないのに「おフランスでは‥…ざあます」みたいのがそうである。
スノビズムは優れて英語的な概念である。スノビズムの源は靴屋を意味する「スノッブ(snob)」という言葉で、18世紀イギリスの上流階級出身の大学生たちが、本来大学に来るような身分でない(と彼らが考える)クラスメートを揶揄する隠語として使ったらしい。「ちぇっ、優等生ぶりやがって、あの靴屋の野郎!」みたいな感じかな。まったくもって靴屋にも失礼というかいい迷惑というか、けしからん話である。
でも考えてみると、「スノッブ」と揶揄された学生が必死で勉強したのは、大学で教養を身につければ、自分の本来の出自よりも上の社会に入れるチャンスがあるからである。そもそも大学というのは、世間の秩序から離れている分、そういうチャンスを与える場所でもあった。たとえ「スノッブ」と罵られようが、ガリ勉して貴族よりも正しくラテン語が喋れるようになればきっといいことがある、そういう希望が持てる場所だった。いや、実際に上の階級に登れなくても、本当は自分は彼らよりも値打ちがある、という知的な自尊心を与えてくれるのが大学教育だった。
歴史を長い目で見れば、社会階級といっても永遠に固定されたものではなくて、新たに勃興して来た階級は常に前代の支配階級の文化に憧れ、それを自分のものにしようとして来た。何のためかといえば、自信を持つためである。そして自信を持つことが一番大きな力になる。「スノビズム」をより広いポジティヴな意味で理解するなら、このように文化を「力」として自分の中に取り込もうとする態度のことだとも言える。そういう意味では、ぼくのような凡庸な人文学研究者が勉強する動機となっているのも一種のスノビズムである(もっともこういうのは古くて、若い世代の研究者たちの間では、専門的知識操作のエンジニアみたいな自己理解が増えてるけど)。
教養主義の根強い欧米では、政治家や企業の代表者にとって哲学や文学や美術史の教養は必須であった(といってもそんなに詳しく知っている必要はなく、社交で恥をかかない程度に知っていれば十分だったのだが)。明治時代の日本でもある程度はそうだったと思う。けれども現代の政治家や指導者の多くは、人文学的教養の欠如を恥じない。教養がなくなったことではなく、それが恥ずかしくなくなったというのが大きな変化である。教養主義よりもポピュリズムの方が、政治的な即戦力になるという計算もある。
無教養が恥ずかしくない、という心性の裏側には、スノビズムに対する憎悪がある(「憎悪」はキツい言い方だけど、人文学系の大学教員は「穀潰しのくせにお高くとまりやがって」的な世間の視線を浴びているのである)。もちろんスノビズムの中には欺瞞的な、みっともなくて鼻持ちならない側面もあるのだけれど、同時にそこには、現在の自分に自信が持てず、自分の身の丈以上のものを何とかして取り込みたいという知的な希求といった側面もある。後者はいってみれば文化そのものを動機付ける希求である。「役に立たんことは知らんでいい」という現代的な居直りは、要するに「文化は要らん」と言っているのである。
そうした態度は自足しているように見えるかもしれないが、本当は深い不安を抱えている。自分がそもそもこの世界に存在する価値があるのか、に関して自信が持てないからである。自分の存在に自信を与えるのは、自分がまだ所有していないものへの憧れを通してでしかない。そうした憧れはスノビズムと同一ではないけれども、スノビズムも許容されるような世界においてしか可能ではない。ぼくは、文化というのは少数の天才と極めて創造的な中核部がいれば事足りるというものではなくて、それらを取り巻いてはしゃぐ観客、ファン、ミーハーといった存在も重要だと考えている。そうしたスノッブたちがいるかどうかが、社会の健全性を測る目安にもなると思うからだ。イヤミ自身は笑うべき存在かもしれないが、イヤミもいなくなった社会は病んでいるということだ。
文化というのは体幹の深層筋のようなものであって、表からは見えないが、それを鍛えないとどんな運動をするにもパフォーマンスが落ち、また大けがをする危険が出てくるような要因のことである。直接的な効用を測れない要因が持つ基本的な効用を評価できない社会は、必ず滅亡するのだと思う。