書くこととは原理的に、ひとつの「愚かさ」を引き受けるという選択だと思う。
そしてそれは悪いことではない。「愚かさを引き受ける」とはぼくにとって「生きる」ことと同義なので、けっしてシニカルに言っているのではない。逆に言えば、愚かさの反対の「賢明さ」とは、それを究極まで突き詰めれば、何も言わないことであり書かないことである。あるいはたとえ言ったり書いたりしたとしても、それを突き放してみることである。世界から自分を隔絶することだ。そうすることはいかにも賢くみえる。
たしかにそうした態度がいちばん賢明な生き方であることは自明なのだが、さらに言えば、生きることはそもそも賢明ではないかもしれない。「最善のことは生まれなかったこと、生まれてしまったら今すぐ死ぬこと」というギリシア的ペシミズムは、思春期からこれまでずっと真理だと考えてきた(と同時に、真理だからどう?とも思ってきた)。
真理はいつも目の前にあったのに今すぐ死ななかったのは、書くことによってわずかに自分をこの世界に結びつけておくこと、賢明さに背を向けてひとつの愚かさを選択することの方が、そうしないよりは少しだけ善いことであると感じてきたからである。その判断の根拠は思考ではなく感情である。つまりaesthetic(直感的)な判断である。
けれども、せっかくそうして自分を繋ぎ止めた世の中を眺めてみると、多くの人は愚かさを避け、自分が愚かに見えることを避けて、ひたすら賢明さだけを追求しているように思える。賢明さを突き詰めた先には死しかないのに、あるいは賢明さを最高の価値とした瞬間に潜在的にはすでに死んでいるのに、そのことに気づいていないように見える(これもまた愚かさだが、みずからを賢明だと信じている点で自己欺瞞的な愚かさである)。言い換えれば、感情の力を軽んじ、aesthetics(美学)を持たないことが、この時代の大きな病だと思うのである。
感情に発する暴言を恥じない人々、みずからの愚かさを露呈して恥じない政治的指導者たちが跋扈するのは、こんな世界では当然なのである。彼らはみずからの「愚かさ」の方が人々の「賢明さ」よりもはるかに優っていることを知っている。なぜなら愚かさを恣にする指導者たちは、多くの人々の「賢明さ」とは一皮むけば自己欺瞞的な愚かさにすぎないことを見抜いているからである。