秋田公立美術大学から出た『辺境芸術最前線---生き残るためのアートマネジメント---』という、なんかすごい切実なタイトルの本のために書いたテキストです。秋田で行った「芸術と道徳」シンポジウムでの講演がもとになっています。書店では手に入らない本なので、同大学の許可をとってここに転載します。オンラインで読みやすいように、改行を増やしました。注釈は省略されています。
この世の人たちより、地下の人たちを喜ばせなければならぬ時間の方が長いのだ。
ーソポクレース『アンティゴネー』
芸術と道徳とは、そもそもどんな関係にあるのだろうか?
誰にとっても、これはきわめて重要な問いである。と同時に、それ自体としてはひとつの抽象的な問いでもある。「芸術」そして「道徳」という一般概念がいったい何を意味するのか、この問いだけからは分からないからである。
現実性を重んじる人は、このような「抽象的な問い」を無力だと感じるかもしれない。それはあまりに漠然とした、何とでも答えられる問いのように響くからである。だが、本当にそうだろうか?
何とでも答えられるとすれば、それはそこで言われている「芸術」「道徳」に好き勝手な意味を込めることができるからである。その場合、それらは一般概念ではなく、語る人が個人的に思っている限りでの「芸術」「道徳」にすぎない。だからそれらに関して何が言われようとも、すべてはたんなる個人的信条の吐露にすぎない。たしかにそんな議論ならどうでもいい。誰にとっても重要どころか、それは当人にとってしか意味をなさない。
芸術、道徳といったテーマをめぐる論述には、この手のインチキが横行している。
このことはしかし、問いの抽象性のせいではない。むしろ逆である。個人的な思い込みであるということは、「芸術」も「道徳」も、そこでは未だ抽象概念として捉えられていないということである。「抽象」とはむしろ、概念を個人的な思い込みから引き抜く(アブストラクト)ことだからだ。もしもある概念がどうとでも解釈できるようにみえるとしたら、それはその概念が未だ十分に抽象化され、一般的なものとなっていないからである。芸術と道徳との関係が誰にとっても重要な問いだと冒頭に述べたのは、それらを一般概念として捉える限りにおいてである。
もちろん、私は「芸術」なんて知らない、「道徳」について考えたこともない、などと呟くのは個人の勝手である。文字通りの言葉によって考えるか否かに関わらず、本質的な意味において、すべての人はこの問いの中に生きていることに変わりはない。誰にとっても重要というのは、誰もそこから逃れることはできないということである。哲学的な問いの重要性というのはそうしたものである。
一般性とは何だろうか? よく「それは一般論にすぎない」などと言って、現実は個別具体的な事例の中にしかないかのように語る人がいる。このような言い方は、はたして妥当だろうか?
たしかに、そこで言われている「一般」が、上述したような偽装された個人的思い込みにすぎない場合、見かけだけのそうした無力な「一般論」を退けるために言われるのなら、妥当と言っていい。けれども一般と個別との関係とは、単純な対立関係ではない。一般と無関係なたんなる個別というものは存在しない。個別具体的な存在が私たちにとって切実であり重要であるのは、それが一般的存在と不可分だからである。個別具体的な生(この私の人生)をそれ自体として考えようとしても、そこには意味が見出せない。そこに意味があるのは、いかなる個別的な生も、一般的なもの、普遍的な人間的生が、ある仕方で表出し実現した様態だからである。
このように、個別から一般へと向かう矢印をしっかり捉えることが、抽象ということなのである。抽象的議論とは現実を遊離した机上の空論ではなくて、むしろ個別的現実のよりクリアな把握に基づくものである。
これらのことを知った上で、芸術は道徳とどのように関わっているかを考えてみたい。この問いを一般な問題として把握することを目指して、まず矢印の起点となりうるような個別具体的な事例に注目してみたいと思う。一見どんなに卑近にみえる事例であっても、そこに一般化への契機が含まれているなら重要なのである。
さて、芸術と道徳という言葉から多くの人がまず連想するのは、両者の対立、矛盾、葛藤を示すような事例であろう。つまり「道徳的に問題がある」とされる芸術作品や芸術行為が引き起こす議論である。それらはしばしば、「表現の自由」をめぐる事件としても語られる。最近話題になった例で言うなら、たとえば2012年に森美術館で開催された「会田誠展:天才でごめんなさい」において展示された「犬」と題される絵画作品のシリーズが引き起こした論争が挙げられる。この作品は、四肢を切断されて血の滲んだ包帯を巻かれ、犬のように首輪を付けられた全裸の美少女の姿態を描き出したものである。
様々な立場から戦われた議論の詳細には、ここで踏み込むつもりはない。確認しておきたいのは、この作品の芸術的価値を擁護する人でも、このような信じがたい虐待を受けている少女のイメージに美的に魅了されることを「道徳的」であるとは主張しないだろう、ということである。芸術的な価値は道徳的拘束を免責されるのか、それとも芸術行為も社会の一部であるかぎり道徳的規範に従うべきなのかーーどちらの立場を取るにせよ、ここで「芸術」と「道徳」とがぶつかっている、というふうに理解されていることには変わりがないと思われる。
芸術的な表現の自由や価値と、道徳的あるいは法的規範、あるいは政治的な適切さとの葛藤を示す事例は、ほかにも数多く存在する。哲学的に重要なことは、慌てて何らかの立場を表明したり、それを正当化するために議論を組み立てたりすることではない。どんな立場をとるかではなく、一般概念として「芸術」「道徳」によって、そもそもそこで何が共有されているかを検討することが重要なのである。それが抽象化の実践である。
まず、「芸術」とは何だろうか? 何か常軌を逸した特別なもの、日常的規範や義務を免責された活動であるという意味が、「芸術」という一般概念には最初から組み込まれている。芸術は違法な存在ではないが、それ自体が「適法」であるわけでもない。芸術が時として違法となったり適法とされたりするのは、偶然の結果である。また芸術が時に示すエキセントリックな身振りはたんなる狂気ではないが、かといって「正気」(狂ったように見えても実は周到に計算されている、とか)であるわけでもない。狂気に見えたり見えなかつたりすることは、芸術それ自体とは関わりがない。
ここから理解すべき基本的な事柄は、芸術は合法/違法、正気/狂気のような日常的・常識的な尺度とは、そもそも別な秩序に属しているということである。ただし、それは端的に「別な」秩序なのであって、より「高尚」であるわけではない。芸術がしばしば高尚なものとして扱われるのは、法や常識の支配的な秩序に比べて芸術の属する秩序は弱いので、護られる必要があるためではないかと思う。
常軌を逸した存在、別な秩序に属する存在としての芸術という概念は、芸術家や芸術学者だけが専有しているわけではない。それは「芸術」という語を用いるすべての人に共有されている。その意味では、芸術家がどういう人間かは誰もが知っており、自分に危害が及ばないかぎり人々は芸術家に対しきわめて寛容でもある。
美術館で鑑賞するヴァン・ゴッホは、誰もが芸術家と認める。もっとも、現代人の多くはもしもゴッホみたいな人が隣に住んでいたら即、警察に通報するだろう。同様に、芸術が道徳的規範に抵触するとしても、その規範が自分にとって切実ではないもの(たとえば過去の時代の、宗教や身分制に関するタブーなど)であれば、人々は安心して芸術の自由を支持することだろう。実際、20世紀初頭の前衛芸術に人々は憤激しスキャンダルとみなしたし、1960年代に登場したばかりのポップアートに対しては「これが芸術か?」という疑いを真正面からぶつけた。だが今日美術館を訪れるような人にとって、デュシャンは深遠でダリは美しくウォーホルはおシャレであって、かれらの作品によって「何かが傷つけられた」と本気で感じる人はいない。
「芸術」という一般概念によって共有されている意味は他にも探究することはできるが、とりあえず本論では、それが私たちの馴染んだ日常世界のそれとは別な秩序に属しており、したがって日常的秩序の中では違法/適法、狂気/正気など正反対の姿で現れることがあるが、そのことはけっして芸術が神秘的で理解不能であることを意味しているのではない、ということを確認しておけば十分である。
それでは、「道徳」という概念の方はどうだろうか?
昨年(2015年)、若き日の太宰治が当時芥川賞の選考委員をしていた佐藤春夫に宛てた書簡が発見されて話題になった。昭和11年のものである。「佐藤さん、私を忘れないで下さい。私を見殺しにしないで下さい」などと書かれており、それはつまり、自分に芥川賞をくださいという懇願なのである。太宰がなぜこんな手紙を出したのかというと、その前年に始まった芥川賞の第一回選考において、太宰の「逆行」という作品が候補になったにもかかわらず、選者の1人であった川端康成の反対によって落選したという事件があったからである。そのときの川端の選評は「作者目下の生活に厭な雲ありて、云々」というものであり、要するに「才あって徳なし」、つまり芸術的には見るべきものがあるが、作者の日常生活には道徳的な問題がある、というのが落選の理由であった。
これに対して太宰はなんと『文藝通信』誌上で反論し、「刺す。そうも思った」などと書いている。今だったら殺人予告で逮捕されるところだろうが、そうした箇所はさほど重要ではなく、面白いのはこの「反論」が、太宰にしか書けない独特の文体を駆使したひとつの小品となっていることである。
つまりこれは常識的な意味での「反論」ではないのである。「作者の生活に道徳的に咎められるような点があろうとも、それによって作品の芸術的価値を判断するのは間違っている」などとクソ真面目に主張するようなものではないということである。殺してやると思ったけれども「そのうちに、あなたの私に対するネルリのような、ひねこびた熱い強烈な愛情をずっと奥底に感じた」などと太宰は書いている(「ネルリ」というのはドストエフスキーの『虐げられた人々』に出てくる孤児ネルリのことで、もちろん川端康成自身が孤児であったことにひっかけている)。だが「それはあなたにはなんにも気づかぬことだ」、つまり川端自身はみずから何を言ったのかを自覚していない、しかし自分はそれを知っていると言うのだ。
読みようによってはヤケクソな言いがかりではあるのだが、太宰が指摘しているのは、世間的な「道徳」から芸術を判断できないことは本当は川端自身が一番よく知っているはずであり、それを知りながら常識人ぶるのは自己欺瞞だということである。選考の不当性に対して反駁するのかと思ったら、まったく論点がズレている。そしてそのズレ方が素晴らしい。
このエピソードを紹介したのは、「道徳」という概念によって何が共有されているかを考えてみたいからからである。四肢を切断された少女の裸体を見ることが道徳的でないように、カフェで知り合った人妻と心中未遂をして、相手を死なせてしまい自分は生き残るのも、もちろん道徳的ではない。けれどもそこで言われている「道徳」とは、常識的・世間的意味での道徳であって、そんなものは時代や共同体のありようによって様々に異なった姿をとりうる。それは子供の時に大人たちから「人間とはこういうものだ」と教えられたから身につくような「道徳」である。そして、芸術は時としてそうした道徳に抵触することがある。
その際、芸術が道徳的義務を免責されるとしても、それは芸術が道徳よりも「エラい」からではない。道徳がその原理的な意味において人間の正しい生き方を求めることであるならば、芸術もまた道徳を目指している。芸術が道徳を越えている、道徳的拘束を免れているなどと主張すると、現代では集中砲火を浴びるだろうが、それは芸術が「お高くとまっている」ように見えるからだろう。しかし実はまったく違っていて、芸術が既成の道徳を逃れているように見えるのは、芸術の目指している道徳が、今たまたまある姿を取っているような道徳ではないからである。芸術と関係する道徳とは、一般的な概念としてとらえられた道徳なのである
この一般概念としての道徳もまた、「道徳」という語によって思考しているかぎり、私たちの誰もが、本当は理解しているものなのだ。封建時代の武士にとっては主君に従うことが道徳であったとか、軍国主義の時代にもこうした道徳があった、などと私たちは当たり前のように言う。そんなことを偉そうに言えるということは、現在私たちが従っている(あるいは従うことになっている)倫理的規範とは、過去のすべての歴史上の規範を凌駕する道徳の最終的な姿なのだろうか?
もしもそう問いかけたら、「政治的に適切」な発言をすべく訓練された私たちの多くはおそらく、「いや、現代の道徳もまた、他の社会や時代から見れば限界のある、間違ったものに見えるかもしれない」などと答えるだろう。こうした現代的態度に共通するのは、道徳なんてすべて時代や環境が決定するものであって、究極的・絶対的な倫理規範など存在しないんだよというような、相対主義あるいはニヒリズムである。
だがこうした態度は、ちょうど太宰治が川端康成を告発したような、ひとつの自己欺瞞なのである。道徳なんて社会的な約束事にすぎないけれど今たまたま現実はこうなってるのだから従わなければならない、というような割り切った意識は、「道徳」という語義からしておかしいこと、道徳とは本当はそんなものではないということを知っていながら、知らないふりをしているということなのだ。
芸術は日常のそれとは別な秩序に属するがゆえに、この日常的意識を揺さぶり自己欺瞞を自覚へと導くきっかけとなりうる。これが、芸術が道徳と関わる最も重要な契機なのである。アンティゴネーは、テーバイの王クレオーンの定めた掟に背き、立場上は敵として討ち果てた兄の遺体を埋葬した。だがそれは「肉親の絆の方が何よりも優先されるべきである」であるという「道徳」が、時々の政治的事情を越えた究極的真理だからではない。そうではなくて、今たまたま自分が置かれている時代や共同体の約束事からみずからを切り離して、神々や死者たち(「地下の人々」)の声に配慮するという点に、道徳的であることの契機があるのである。
以上短く不十分な考察ではあるが、芸術と道徳との葛藤として捉えられている事態とは、本当のところは芸術と道徳との間に起こっているのではまったくなくて、むしろ二つの種類の道徳、芸術が目指すところの本来の意味における道徳と、私たちがたまたま従っている共同体の規範、あえて言うなら真の道徳と見かけの道徳との葛藤であることを指摘することで、本論の結論としたい。