2017年3月11日金沢で、主に高校生に向けて行った講演のトランスクリプトです。
ぼくの専門は美学芸術学です。この「美学」も「芸術学」も、聞いただけで「ああ、なるほど」と思う人は少ないでしょう。どちらも日本語だから何となく意味は分かる(ような気はする)けれども、実際のところ、いったいどんなことを研究する学問なのか、それほど広く知られてはいないと思います。それでもいいのですが、こういう場所でたくさんの人に話す機会をいただいたので、今日は美学芸術学がどういう学問かということについて、とりあえず説明したいと思います。さて、どうするか‥‥美学芸術学には「美学」と「芸術学」というふたつの要素がくっ付いているようですので、とりあえずバラバラにして、ひとつずつ説明してみたいと思います。デカルトも「難しいことはひとつずつ分ける」("...diviser chacune des difficultés..."『方法序説』)と言いましたからね。
まず美学です。
これは英語では"aesthetics"と言います。「エステティック」は、何となく美容院(salon d'esthétique)を連想させるから、やっぱり「美」に関係のある言葉かというと、違います。"aesthetics"の最後の"s"は学問の英名に時々付いている字("mathematics"、"economics"等と同じ)ですが、それを取った形容詞"aesthetic"は、元々ギリシア語の「アイステシス」という言葉に由来します。この「アイステシス」とは、「直に感じること」「直接的な感覚」というような意味です。「直接(immediate)」というのは「媒介がない」「無媒介」ということです。「直感」という訳語も可能かもしれません。何かを知る時に、感覚以外のものーー「概念」だとか「知識」だとかーーが、間に入っていないという意味です。そういう意味を頭において「感性的」と訳してもいいかと思います。「美」というのは価値、それも究極的な(つまり手段や代替物ーーお金のようなーーではなくそれ以上遡れない)価値ですが、重要なことは、"aesthetic(s)"には「美」という意味は入っていないということです。
ではなぜ「美学」などと言うのか?
この"aesthetics"(仏:"esthétique" 独:"Ästhetik")を明治時代に日本語に翻訳する時、いくつか訳語が作られた(たとえば森鴎外は「審美学」と訳した)のですが、最終的に「美学」に落ち着いたのですね。一般によくあることですが、最終的に残るものは、最良のものとは限りません。とりわけ言葉は、無意味でも不正確でも語呂がいいと残ったりします。この「美学」という訳語も、響きはそれほど悪くないですが、原語にはない「美」という字が入っているため誤解を招きます。美を研究する学問のように聞こえるのです。この誤解を防ぐために「美学」ではなく「感性学」と訳すべきだと言う人もいます。たしかにその方が正確ではありますが、ちょっと言葉としておさまりは悪いですね。もし美学教授と感性学教授がケンカしたら感性学教授は負けるような気がします。
それはともかく美学が「美」ではなくて「感性」、つまり「直接感じる能力」についての研究だということは、いったい何を意味するでしょうか? 高度な認識に到達するためには、勉強や修練が必要だと私たちはふつう考えます。それは、今はまだ持っていない知識や概念を身につけるということです。それに対して、何かを「直接感じる」ことは、別に努力や勉強をする必要はないように思えます。けれども本当にそうでしょうか? 野の花を見て可憐さを感じたり、海に落ちる夕陽を眺めてセンチメンタルな気持ちになると言ってもは、多くの人が同意してくれます。でもそれは本当に「直接的感覚」でしょうか? 同じ自然でも、たとえば花壇のミミズを発見したりすると人は「ギャッ」と叫んだりする。でも、ミミズが実は土の中で大切な働きをしているのだと知ったら、「健気だ、可愛い」と感じるようになるかもしれません。
私たちが何かを直接感じているかのように思っているような経験でも、多くの場合、何かを感じる以前に、それが何かということをあらかじめに知っており、それに対してどのように反応すべきかを、あらかじめ学習しているのです。「それが何か」とはその対象の概念であり、それをあらかじめ知っているということは、概念に媒介されているということです。無媒介的、直接的ではありません。私たちは、別に努力も勉強もしなくても、ある社会の中に生まれある文化の中で成長するだけで、様々な概念、価値観、条件付けによって、感覚にフタをされているのです(それがいけないと言っているのではありません)。私たちがありのままに見聞きし感じていると思っているこの世界には、実は無数の概念や価値観が堆積しており、私たちはその膨大な堆積の表面をただ眺めているだけなのです。
こうした認識が、美学の出発点(のひとつ)です。
知ってほしいのは、「直接的感覚」というのはけっして自明で簡単なものではなく、とても困難なテーマだということです。直接的感覚を邪魔する諸々の概念は、エイッと身震いしても振り落とすことはできません。ではどうしたらいいのでしょうか? 自然に身についてしまった諸概念から解放されるためには、奇妙と思われるかもしれませんが、それとは別な概念を意図的に身につける、つまり勉強する必要があるのです。すなわち別な時代や文化に属する、別な世界観について学ぶということです。美学は広い意味での哲学の一分野ですが、哲学には一般に、新しい方がより正しい、昔よりも今がいちばん進んでいる、ということはありません。単純な意味での「進歩」はないのです。
私たちの多くが無条件に価値を置いている「進歩」とは、歴史的に形成されたひとつの先入観です。エッ?! と思う人もいるかもしれませんが、それは私たち近代人・現代人の多くに、「進歩」という観念(先入観)で何でも考えてしまう習慣が身についてしまっているからです。だから芸術も科学のように「進歩」するから価値があると考えてしまう。けれども人類は長い間、「進歩」などという観念なしに文明を営んできました。このことも説明すると長くなるので、これくらいにしておきましょう。
では次に、芸術学について考えます。
「芸術」が何かということは、誰でも(各々それなりの仕方で)知っているのではないでしょうか。そして、芸術は人間にとってとても大切なものだと思っている人も少なくないでしょう。ただ「芸術」というこの漢字語に引っかかる人はいるかもしれません。では「アート」ならいいですか? これもまた、日本語に特有の問題です。ここでまた訳語の問題に入り込むとキリがないので、「芸術」と「アート」の違いは無視して、事柄の本質だけを見つめましょう。できる限り単純化して考えてみます。およそ人間が何かを表現し、あるいは感覚する時、そこには、何が何の役に立っているのかクリアに説明できない側面、つまり「手段-目的」の連鎖に解消できない側面があります。説明できないが面白い、というようなことです。「彩」、「様式」、「やり方」、「作法」、「優雅さ」等々といった要素ですね。この世界の中の、何の役に立つのかわからないが、そこには大きな価値(「美的=感性的」な価値)を感じるという側面です。これが最も広い意味における「芸術」の成分です。
何の役に立つか分からないけど価値があるというにおいては、実はこの宇宙における人間という存在と同じです。人間は、宇宙のために何の役に立ってるのか分かりません。ほとんど無意味な存在のようにも思えます。地球のためには、役に立っているというより、害を及ぼしているとすら思えます。人間は(特に近代人は)何が何の役に立っているのかと躍起になって考え、無駄を省いて効率化しようとしたがりますが、それは人間自身が、この世界に何の役に立っているのか、本質的な意味では分からないという不安、人間の存在などと無意味ではないのか? という根源的な不安の裏返しであると考えることもできます。昔は、この世のあらゆるものは神様の意図によって存在していると考えられていました。けれども科学万能の時代になって、神様は死んだーーのではなく、本当は人間の中に入り込んだのです。つまりこの世のあらゆるものは人間のために役立っている(あるいは役立つべき)と、私たちは考えるようになった。いや、自然環境を大切にしなければいけない、と考える人でも、その「自然環境」とは、人間にとって都合のいい自然環境にすぎません。
すべてが何かの役に立たつために存在している世界というのは、とても息苦しい世界です。なぜ、すべての存在には意味がなければならないのでしょうか? なぜ「ただ存在している」のではいけないのでしょうか? たとえ何かの役に立つにしても、「たまたま役に立っている」のではなぜいけないのか? 私たちはなぜ、いかにして有意義に生きるか、ではなく、「ただ生きる」ことを中心に据えて、世界観を組み立てようとしないのでしょうか? ここにも、私たちの「自然」で「常識的」な思考が、いかに偏狭で不自由なものであるかが現れています。
「芸術」というのはいわば、あらゆるものが手段-目的の網の目によって結びついているこうしたシステムの「外」にあるものです。ただ「外」と言ってもそれ自体が言葉の彩で、空間的な外部があるわけではありません。別な言い方をすれば、芸術とはいわば稠密に構築された意味のシステムの「破れ」のようなものであり、さらに言うなら「事故」のようなものです。なかなか、芸術学の深い水の中に入ってきましたね(笑)。大丈夫ですか? 芸術的な経験についてよく「言葉では言い表せない」などと言います。この言い方自体は陳腐です。なぜなら「言葉では言い表せない」という誰でも言えるクリシェ(紋切り型)によって、芸術の超言語性を安易に言葉にしてしまっているからです。けれども芸術がそもそも言語を超えていることはその通りです。芸術とは本来の意味での「言語道断」なものなのです。「言語道断」というのは仏教の言葉で、「けしからん」という意味ではなく、言語を超越しているという意味です。(とはいえ、しばしば普通の意味で「けしからん」ものとして現れる芸術も存在します。)
さて、芸術がもしもそういうものだとしたら、「芸術学」とはいったい何なのか?
「学」、学問というのはそもそも、何かよく分からないものを、言葉ーーふつうの言語であれ数学の言葉であれーーに置き換えることよって、説明できる、分かるようになるということを目指しているのではなかったのでしょうか? 言語に置き換え不能なこと、つまり「分からない」ことをその本質とする芸術という存在に対して、「学」、学問的認識というのははたして成立するのか?
「芸術学」という学問は現実に存在しています。芸術学が、今述べたような芸術の超言語的な存在様態、芸術というものの本質的なあり方に対して、実際にどういう態度をとっているかというと、言ってみれば「まあそんなにカタいこと言わないで‥‥」というような感じです。芸術はこの世界の中に現れる「出来事」ですから、そこにはもちろん、言葉によって説明できる側面は数多くあります。作品の「謎」を解いたり、作者の「意図」を再構成したりすることもできます。似たものを集めてグループ化したり、年代による変化や系統を整理したりすることもできます。芸術研究者のやっている仕事の99%はそうした作業です。そうした作業自体は、そこそこ楽しいことでもあるし、また他の学問研究に似てもいます。けれども、もしも難病を治療したり便利な機械を発明したりより良い社会の仕組みを考えりすることが学問の意味だとしたら、「芸術なんて研究して何になるのか?」という問いが生まれます。
芸術なんて研究して何になるのか? 言い換えるなら、優れた芸術があればそれで十分ではいか? という疑問です。芸術は素晴らしいけれど、それを批評したり研究したりすることは、無駄なことではないのか? 作品は作品として言いたいことは言い切っているのだから、それをさらに説明したり解釈したりするのは無粋なこと、興ざめではないか、といった疑問です。
実はこうした疑問は、問い自体がとんでもなく間違っています。本気でないというか、自分が何を問いかけているか分かっていないからです。
そもそも「優れた芸術作品」とは何でしょうか? それは、芸術について語られてきた言葉の集積の結果です。作品は言葉と無関係に存在することはありません。「いわく言いがたい」というのも言葉です。芸術の本質は言語を超えているけれど、芸術は言語と不可分な存在としてしか、現れないのです。ここに芸術学の存在する可能性があります。芸術について語ることは、言葉の限界を知ることです。芸術学は、自然科学が「学問」であるのと同じ意味で「学問」であるわけではありません。芸術学とはいわば、芸術についての「良質のおしゃべり」です。「おしゃべり」などと言うと、いかめしい「学問」に比べ、軽く見られるかもしれませんが、そういうふうになったのはここ二百年くらいのことにすぎません。芸術学の存在は、すべての学問の本質は様々なトピックについての「良質のおしゃべり」にではないのか? という問いかけでもあります。どうしてそうであってはならないのか? という問いであるとも言えます。