公的な場所からコントロヴァーシャルな何かを取り下げる口実として「子供やお年寄りも見るものですから…」などと言われることがある。
でもぼくは今まで、「こういう刺激の強いものは私たち見たくないからやめさせてください」などと老人や子供たち自身が訴えているのを、見たことも聞いたこともない。まあ、小さな子供は言葉で言えないかもしれないが、老人というのは立派な(というか立派すぎる)大人である。どうして誰かに代弁してもらう必要があるだろうか?
実はそうしたことが言われる理由は明らかだ。老人や子供たちは、たんにそのイメージが利用されているだけなのである。いわゆるマイノリティ、「無力で平和的な存在」としてね。老人や子供たちが「無力で平和的な存在」だなんて、日常生活においては冗談としか思えないけど(笑)、それでも公的なエクスキューズとしては通っちゃうのである。
老人や子供たちを「無力で平和的な存在」というイメージで利用しているのは、自分自身は無力でも平和的でもないオジサンたちである。つまり役人や官僚だったり、大企業や組織の意思決定ポジションにいる人たちである。でもね、彼ら自身を一人一人としてみるならば、そのほとんどは「老人や子供たち」と同じく無力であり、不要な波風を立てたくないと望んでいる意味で「平和的な」な人々のようにみえる。
だから彼らに対して「権力が!」などと叫んでも、一般にはあまり効果がない。なぜなら彼らはみんな、自分は「権力」なんてものとは無縁だと、本気で実感しているからである。
けれど、もちろんそれは権力である。現代の権力とは、それを行使する一人一人が、「わたしには何もできない、規則や上からの命令を遵守するしかないのだ」と信じることによって、そして、そうした人々が集団的に組織されることによって、生み出されるものだからだ。
これで、だいたいお分りでしょう? 老人や子供たちのイメージが「無力で平和的な存在」として呼び出される本当の理由は、実は権力を行使している人々自身がその個人的空想の中で、自分も老人や子供たちと同じ「無力で平和的な存在」にすぎない、そうあってほしい、と願っているからなのである。
でもそれは空しい夢想である。「自分は無力だ」と実感していることと、結果的に権力を暴力的に行使していることは、同じひとつのことなのだ。暴力(ゲバルト)にみえない暴力こそが、いちばん厄介なのである。