以下のテキストは、来たる9月10日〜10月12日の間、ルドンのコレクションで有名な岐阜県美術館で展示されるメディアインスタレーション作品「BEACON 2015 みあげてごらん」のチラシのために書いたものです。本日チラシが搬入されたので、テキストもネットで公開することにします。映像は、先日伊藤高志さん、小杉+安藤さんといっしょに沖縄に行って撮影したものがメインになると思います。これからが制作本番です。
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BEACON 2015は、「空を見上げる」という行為に注目する。「見上げる」という行為を通して、互いに隔てられた場所や人々を結びつけることを、試みたい。
人はそもそも、どんなときに空を見上げるのだろうか?
それはたとえば、この世の煩いから離れたいときであり、遠い存在に思いを馳せるときかもしれない。
またそれは、希望を持とうとするとき、あるいは反対に、絶望したときであるかもしれない(見上げるという行為において、希望と絶望とはつながっている)。
さらには乗り越えがたい障壁によって、突然行く手を阻まれたとき。それはつまり、自分は今まで閉じ込められていたのだと、知ったときだ。
空を見上げる。空には境界がない。
空においては、生と死すら隔てられていないかのように感じられる。この〈境界の無さ〉によって、空は私たちをやさしく抱きとめてくれる——そんな気がする瞬間もたしかにある。
けれどまた人は、上空から迫りくる脅威に気づいて、思わず空を見上げる、といったこともあるのだ。
飛行体の不穏な黒い影。ジェットやプロペラの音。
空。頭上に広がるこの圧倒的な空虚は、「安全」という幻想を打ち砕き、私たちが実はまったく護られてなどいないこと、原理的に無防備な存在であることを、告知するものだ。
空を見上げることは恐ろしい。それでも、空を見上げることは大切であると思う。私たちは、見上げる存在であり続けたい。本当に恐ろしいのは、人々がもはや空を見上げなくなるときではないだろうか。
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沖縄に撮影に来たと言ったら「〈基地〉を撮りに来たんですか?」と尋ねられた。
僕たちは基地を撮りに来たのではない。BEACONがこれまで映し出してきたのは、いつも名もない日常の風景であったし、そのことは今回でもまったく変わりはない。けれど沖縄で撮影すれば、〈基地〉(あるいは〈基地〉的なもの)は自然に写り込んでしまう。それを意図的に避けないかぎりは。
美術が社会問題に言及するとき、美術は社会問題を自分のために「利用」しているのではないか?という疑いが、いつも起こる。この疑いを晴らすために、美術は社会問題にけっして言及しないという立場もあるし、逆に美術なんかどうでもよくなって、社会運動と一体化してしまうという立場もある。ぼくはどちらにも進めなかったので、この疑いの居心地の悪さをむしろ受けいれ、維持したいと思った。
主題化したいのは、意図的に造られながら自然なものとして提示されてきた現実、分断された日常的現実の様相である。一方には終わらない戦争と〈基地〉の沖縄があり、もう一方にはエキゾチックに観光化された沖縄がある。前者についてはシリアスな顔で議論すべきで、後者は無邪気に楽しめばよいとされている——けれどこんな分断は作為的だ! 要するにどちらも、その場所は「日本でありながら日本でない」と言っているだけなのだから。
BEACON 2015によって提示したいのは、沖縄特有の問題とか魅力ではなくて、沖縄という場所は今私たちがいるこの場所(岐阜、京都、etc.)と連続しているという、ごく当たり前の事実である。空を見上げれば、その連続は実感できる。見上げることは、世間から自分を切り離す行為でもあるのだが、そのことによって同時に、新しい連帯を求めること、改めて手をつなぎ合う行為でもあるのだ。
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会 期:9月10日(木曜)から10月12日(月曜・祝)まで 休館日:9月14日、24日、28日 、10月5日 ※9月18日(金曜)は夜間開館日 観覧料:無料 |
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灯台の光によって照らし出される風景のように、二つの映像が会場内を旋回するメディアアート作品、《BEACON 2015》を展示します。伊藤高志(映像)、稲垣貴士(音響)、吉岡洋(現代思想)、KOSUGI+ANDO[小杉美穂子、安藤泰彦](現代美術)の五人のメンバーによって制作されます。 |