9月23日、一乗寺の恵文社コテージという所で、『真夜中の博物館』という本を出された美術批評家の樋口ヒロユキさん、美術家の谷澤紗和子さん、Contact Gonzoの塚原悠也さんと話す機会があった。そこでしゃべったことをちょっとメモしておきます。
樋口さんはまず、ぼくが1997年に講談社から出した『〈思想〉の現在形』という昔の本を持ってきて、これは複雑系科学とかアフォーダンスとか書いてあるけど、実は科学や現代思想を解説してる本ではぜんぜんなくて、ひたすら「言葉とは何か」ということを問いかけている本であって、吉岡さんによれば言葉とはものごとを記述したり説明したりする点にではなく、そうしようとして破綻する瞬間にもっとも重要な情報が含まれている、と紹介してもらったので、それは今までその本について言われたいちばん優れた批評ですと答えた。社交辞令ではなく、本当にそうだと思った。
樋口さんがぼくを呼んだ理由は、自分は在野の呪術的批評家なので、大学の美学の教授という制度の中心にいる人を呼んで、バランスを取りたいということらしい。シャーマンが暴走するのを神官が制止してほしい、ということである。でも実際には彼の近著を読めば分かるように、樋口さんは個々の作家や作品にとても丁寧によりそう良心的な書き手であり、呪術を唱えてはいるけれど本人はあんまりシャーマン的ではない。一方ぼくはといえば、制度的には大学に属しているけれどかなり好き勝手なことをしている。『パラ人』でもちゃぶ台ひっくり返したでしょうと言われた。またこの間もある人から、ぼくの書くものは作家や作品について書いているようで実は自分のことしか書いてない、と批評された。しかも自分について書いている部分だけが面白く、無理して他の何かを説明したり批評したりしようとしている部分はつまらない、と。
塚原裕也さんとは、本人と直接お話しするのははじめてだった。彼は、ダンスやパフォーマンスについての言葉が、現代では乏しくなっていると考えている。では、ぼくは彼らの活動について何か語れるだろうかと考えてみた。Contact Gonzoのパフォーマンスはよく「殴り合い」という言い方をされるが、ぜんぜん殴り合いではない。複数の身体が絡み合うのだが、何をしているのかははっきり分からない。ぼくがはじめて彼らの作品を観たときに思いだしたのは、よく電車の中などで学校帰りの中学生男子たちが、互いにこづき合ったりしながら、ある場合には本気のケンカみたいになっていったりする、不安定な身体的関わりのことである。大人は何か行為をするとき、それは社交儀礼であるとか、性的なものであるとか、攻撃であるとか、はじめから意味付けを前提している。確定された意味の後に行為があるのである。
そのことを言いかけたら塚原さんは、複数の身体が絡み合うということでぼくがセックスのことを言うのかと思った、と答えた。実際、彼らのパフォーマンスはセックスみたいにみえると時々言われるのだそうである。たしかにそれは無関係ではなく、思春期の男子たちが絡み合うのはある意味ではセックスの代理である。男の子がいつそういうことをやめるかというと、本当に女子とつきあうようになったらやめるのだと思う。年齢の問題ではなく、大人になっても軍隊のような環境の中だと、やはり絡み合ったり殴ったりする。とはいってもそれは単純に何かを代理しているのではなく、いわば意味の確定しない行為として存在している。意味の確定しない行為は不安定であり、攻撃が暴力的であるというのとは異なった意味において、暴力的である。
行為の意味は本来、最初から切り分けられているのではなくて連続的に変化している。行為のそうしたリアリティを露呈させるところがContact Gonzoのパフォーマンスの力だと思う。サッカーのようなスポーツの面白さも、昔プロレスが面白かったのも、そうしたことに関係があると思う。スポーツはたしかに「勝つため」に合理的に意味づけられた行為なのだが、現実にはそれ以外の要素がどんどん生まれてきて、何をしているのか分からないような局面がある。そういう瞬間が面白い。プロレスも一応「闘い」として意味づけられてはいるのだが、あんなマッチョな男同士が本気で闘ったら死んでしまう。ではひたすら見世物、エンタテインメントのための行為なのかというと、もちろんそうでもない。スポーツもエンタテインメントも、ひとつの分野として発達し進歩するにつれて、目的合理的な側面が大きくなる。すると技術は向上し記録は伸びるが、つまらなくなる。行為が意味を食い破る瞬間の、祝祭的な悦びが減少してゆくからである。
谷澤紗和子さんは、『有毒女子通信』のネーミングのもとになった、ボイスギャラリーでの「有毒女子」展以来よく知っている。切り紙や、油粘土に貝殻を埋め込んだ彫刻が強烈な印象を与える作り手であり、樋口さんの本でもとりわけ重要な作家として扱われている。油粘土に埋めこれまた貝殻は、切り裂かれた傷口のようでもあり、女性器のようでもある。谷澤さんの言うには、この粘土の作品に対して、男性はとりわけ強い反応を示すのだそうである。それは必ずしも、貝殻の部分が女性器にみえるからではないと思う。女性器を連想したとしても、同時にそうではない何かのようにも見え、やはり意味が確定しない不安をもたらすからだと思う。「対象(オブジェ)」にならないのである。この間、ろくでなし子さんが逮捕されて話題になったが、彼女の作品は、まともにオブジェとして認知されない女性器をオブジェにしようとしているわけだから、谷澤さんの作品とは正反対である。
信楽のレジデンスをしているとき、粘土の作品を焼いてみたらどうなるかと考えて何十体も焼いてみたそうである。その話を聞いた時には、油粘土と貝という生々しい物質感が薄れてオブジェに、作品になってしまうのではないかと思った。油粘土は触ると形が変わってしまうし、手に匂いもつく。焼けば形は定まり、触ることもできるようになる。樋口さんの言い方を借りれば、呪術性が薄れてしまうのではないか、と。けれども作品のスライドを見せてもらったらそうではなかった。焼くと油粘土は縮まってひび割れ、貝殻は縮まないので抜け落ちてしまう。貝がはまっていた部分には、貝が炉の中で焼けたときの反応によって独特の色が残る。何だかものすごいモノができてしまっていて、ひとつ欲しくなった。
「呪術的」という言葉を受けいれるべきかどうか。そういう言葉は、まあ名刺代わりみたいなもんだと思う。展覧会の企画書を書いたりチラシを作ったりするときには、そういうキーワードが必要であり、観客動員数などを左右するのは、批評的な言葉ではなくてキーワードである。でも「キーワード」とはよく言ったもので、その言葉は何かを開けるためだけのもので、それ以外には役に立たない言葉である。作品や作家を言い当てるものではなく、それをきっかけに何かを考えるための手かがりにすぎない。多くの人はキーワードによって作品を解釈したつもりになるかもしれないけれど、それは縁がなかったのであって、仕方がない。ぼくは美術について語るとき、ひとりでも多くの人に分かってもらおう、などとは思わない。「ひとりでも多くの人」なんて抽象的なキレイ事であって、行政が好んで用いる「子供やお年寄り」と同じで、そんな人はどこにもいないのである。その意味で啓蒙を信じていないから、本当は先生なんてやる資格はなく、樋口さんよりも、悪い意味でシャーマンかもしれないと思っている。
最後に、樋口さんの提唱する「呪術」なるものについても一言コメントした。呪術とは確かに、動き回る霊を呪縛し封印する術、形のないものに形を与える技術でもある。けれどもそれが呪術のすべてではなく、逆に形の中に閉じ込められた霊を解き放ち、運動を生起させる技術でもあるのである。今回の著書の中で樋口さんが強調する呪術、あるいは呪術的美術というのは、どちらかというと前者の側面が強い、という印象を受けた。美術に呪術的な側面を見出すことによって美術とサブカルチャーとを結合してしまう、というプログラム自体には基本的に賛成である。けれどもその時の呪術とは、封印する呪術だけではなく、解き放つ呪術でもあることが大切である。だから真夜中の博物館は、その最奥部へと入り込むと、いつの間にかそれが真昼へとつながっている、みたいなほうがいいと思う。『真夜中の博物館』は、彼のフェティシストな愛にあふれたすばらしい本だけれども、夜の闇に守られて少々居心地が良すぎるな、ということも感じた。