生きることのかわりに、数をかぞえる。
なぜなら、生きることと、数をかぞえることとは、同時に行なうことができないからである。そして人は、もう生きることができないと感じた時、数をかぞえるしかないからである。
もちろん数をかぞえている最中だって、私たちは生きている。そうでなければ、数えることすらできない。けれども、数をかぞえることに集中している時、生は、どこか彼方に追いやられている。
なぜか? 数というのは、どこかこの世界ではないところから、やって来たものだからだ。数は私たちのように形を持たず、私たちのように歳をとらない。
数は私たちを誘惑して、私たちを生の外へと連れ出す。そのかぎりにおいて、数とはいわば悪魔のような存在なのかもしれない。でもそれは、黒くもなく尖った尻尾もない、透明な悪魔である。
数というこの悪魔とともに、私たちは自分が産まれる前へ、自分が死んだはるか後へも、軽々とジャンプすることができる。1945年。1956年。1979年。2011年。2014年。…59049年 。
数は、このちっぽけな私たちを、宇宙の悠久と結びつける。数が、知識のすべてなのである。私たちはちっぽけな知識で作り出した装置で、宇宙の火のカケラを地上に灯す。その火の燃えカスの、恐ろしい放射が減衰してゆく時間は、数によってしか、表示することも、理解することもできないのである。
生きるかわりに、数をかぞえる。
生きることと、数をかぞえることとは、いっしょに行なうことができない。もう生きることができないと思える時は、数をかぞえるしかないのだ。数をかぞえることで私たちは、滅亡からわずかに逸れた場所にとどまり続ける。
数をかぞえることは、生を担保に入れることである。