「坑道のカナリア(canary in a coal mine)」というのは、いまはもう使われることのない安全対策に由来する言葉です。炭坑で働く男たちが、カナリアの入った鳥かごを携えて坑道に入って行く。ご存じのように炭坑労働には多くの危険が伴いますが、そのひとつに一酸化炭素などの有毒ガスが知らない間に充満していて、気が付いた時にはもう遅く、身動きがとれず死に至るということがあります。カナリアは人間よりガスに敏感なので、まだ人間の身体には害のないような僅かな量の有毒ガスにも反応し、騒いだり気絶したりする。それを見て危険を察知し避難することができるというわけです。
現代ではおそらく、カナリアよりももっと敏感な有毒ガス検出器を持って行くので、こんなことは行われません(いや、別に確かめたわけではありませんが、ないと思います)。けれども比喩としては、「坑道のカナリア」はまだ使われているようです。なぜかというと、逞しい炭坑労働者の男たちと、鳥かごの中のカナリアという対照が、絵としてたぶん印象的だからです。そして人間よりもずっと無力なカナリアが、まさにその「弱さ」のゆえに、屈強な男たちの命を救うということが面白いのだと思います。(とはいえ炭坑というイメージがもはや身近なものではなくなった現代では、しばしば"coal mine"の部分は省略されて"canary"だけが敏感さの比喩として使われたりします。)
さて「坑道のカナリア」とは、そもそも何の比喩だったのでしょうか? アメリカの作家カート・ヴォネガット・ジュニア( Kurt Vonnegut, Jr. 1922-2007)は1969年、アメリカ物理学教員協会(Ameriacan Association of Physics Teachers)における講演の中で、「坑道のカナリア芸術論("the canary in the coal mine theory of the arts")」なるものを唱えました。それは、「芸術は何のために存在するのか?」という疑問への答えを、物理学の先生たちに対して説明するものだと思われます。社会の中における芸術家とは、坑道の中のカナリアのようなものである、と彼は言う。つまり一般の人々がまだ察知できない危険が迫っている時、芸術家は「超敏感」なので(この「超敏感」"supersensitive"という言葉も、聴衆が物理学者であることを意識しているように思われます)」、ふつうの人たちが平気な顔をしているようなことにも騒ぎ立て、それで危険を知らせるのだと言うのです。
カート・ヴォネガット・ジュニアの小説は愛読していたのですが、この「坑道のカナリア芸術論」を読んだとき、ぼくは何とも居心地の悪い気持ちがしました。なるほど、うまいことを言うな、などとはとても思えなかった。けれどもそれは、ぼくがまだ歳が若くてバカで、ヴォネガットが言ったことを文字通り受けとってしまったからだと思います。実際にはかれはたぶん、かなり自嘲的な調子でこの説を語っていたのだろうと想像します。ぼくはそれをクソ真面目に受けとってしまったので戸惑った。まあ、それは仕方がないとして、ではこの話をクソ真面目に受けとるとなぜ戸惑ってしまうのか、ということについて考えてみたいと思います。そこには大きくふたつの論点があります。
まず第一に、これは「芸術は社会にとって何の役に立つのか?」という問いに対するひとつの答えのように思えます。そして、同意するかどうかはともかく、かなり明確な答えです。そういう答えを出しているということは、「芸術は何の役に立つのか?」という問いをまともに受けとっている、ということを意味します。この「問い」の価値、つまりこの問いは問うに値するものであるということを承認しているということです。知的な自由はとても重要です。もちろんどんな問いを立ててもかまいません。けれども、ある問いがひとたび立てられると、それは私たちの思考を拘束してゆく、ということを知っている必要があります。「芸術は何の役に立つのか?」という問いは、暗黙のうちに「どんなものでも何かの役に立たねばならない」という考えを前提していますが、この前提は芸術について考えるためには、致命的な障害になります。
それはどういうことかというと、この世界に存在するあらゆるものはたしかに一見、何かより高い目的のため、たとえば「成功」とか「進歩」とか「幸福」とか、そうした華々しい目的を実現するための「手段」として存在しているようにみえますが、また別な見方をするなら、どんなものでもただありのままに存在している、とも言えるからです。「ありのまま」というのは無目的・無価値という意味ではなくて、それらはたしかに何かの目的を指し示し価値を有しているのだが、それがどんな目的でありどういう価値があるのかは分からないということです。そもそも私たちの人生そのものが、そうした二面性を持っていると思います(ただ現代では、前者の側面、つまり「成功」「進歩」「幸福」など何らかの明確な目的にとっての「手段」という面のみが支配的になっています)。
芸術は、この二面性のうちの後者に深く関わる領域です。芸術における目的や価値は、たしかに存在しているのですが、簡単に「これです」とは言えないのです。この「あるけど言えない」ということを認めることが、いわば芸術に近づく第一歩です。だから、「坑道のカナリア芸術論」をクソ真面目に受けとってしまったぼくは、この説明はそもそも芸術という領域そのものの否定になってしまうと思ったわけです。
第二の論点は、芸術家を「カナリア」に喩えるということに関するものです。これはどうでしょう? 芸術家、アーティストははたして「カナリア」のような存在なのでしょうか? たしかに、常識的な芸術家像の中には、「(超)敏感」で、「傷つき易く」、人が感じない事を感じ、ごく普通のことが苦痛として経験される、といったステレオタイプがあります。そんな人がリアルタイムに家族や友人にいたらかなりしんどいことでしょうが、過去の歴史の中に、美術館のガラスケースの向こう側にいるかぎり、私たちはそうした「社会に不適応で、時代に見放された」芸術家たちのことを、本当は未来を見通していた「カナリア」として、愛することができるのではないでしょうか?
いってみればそれは過去の芸術家の「弱さ」に共感しつつ、けれどもその「弱さ」とは、率直なあまりに招いた不遇、周囲の人々の無理解、時代にあまりに先んじていたという不幸、等々といった偶然的な要因が招いたものにすぎず、本当は価値があり未来を予見していた、「進歩」と現在の「成功」に結びついていた、つまり「本当は強かった」という確信に裏打ちされています。ヴァン・ゴッホをはじめ過去のすべての不遇な芸術家たちを観る私たちの視線は、根本的に「上から目線」です。つまり「今の私たちはあなたの行ったことの価値を知っている。あなたの周囲の人々は因習にとらわれ鈍感だったが、現在の私たちはあなたが〈カナリア〉だったことを知っている」というものです。
こうした芸術観は、ぼくにはけっして承認できない。なぜなら、それは「弱さ」の意味を徹底的に考え抜いていないからです。そこでは「弱さ」とは、まだ形をなさないもの、萌芽的なもの、けれども現在の私たちはそれが新たな「進歩」と「成功」に結びつく兆しであることを知っているものとして考えられているからです。それは本当は「弱さ」ではなく、「強さ」が歴史的に偽装されたものにすぎない。ぼくは芸術を経験するということは、根本的な意味での「弱さ」を経験することだと思います。「弱さ」とはいわば、認識の足場を失うことであり、言葉を喪失することです。といっても失語症になることではなく、むしろ(今ぼく自身が行っているように)いっぱいしゃべってしまうことなのですが、けれどもそうした言語的な努力や工夫のすべてが、言語を越えたリアリティに向かっているということです。こういう認識活動・言語活動が美学や芸術学のコアで、そういう研究が存在するということを、とりあえずここでは言っておきたいわけです。
(あとは明日の講義で展開します)