この種の風聞というのは、いくら違うと言ってもなかなか払拭されないのだが、ぼくは研究者仲間の間では「語学がすごく堪能」な人だと思われているらしい。いくら否定してももどうにもならない(というか、否定するとそうした風聞はよけいに強化される)ので、もはやあえて否定する気も起こらないのだが、それにしてもこんな風聞がなぜ広がるのかという理由は、考えるに値する問題だろう。なぜか。思うに日本の研究者や学生たちの多くは、「語学がメチャクチャ出来る」同僚とか先生とかがいることを、空想するのが大好きなのである。
そもそも「語学」という日本語表現の中に、何か尋常ではない欲動のふくらみが感じられはしないだろうか? 「語学が出来る」という言葉が意味しているのは、実際には英語やフランス語、中国語などの言語を読解し運用する能力のことである。「語学」という表現自体はなんとなく「言語学(linguistics)」を連想させるが、それは学科としての言語学とは何の関係もなく、端的に言語能力のことであり、だから「学」という字は本来必要がない。それではなぜ「学」という字がついているのかというと、それは、明治以来(主として)西洋言語に通じているということ自体が「学問」「教養」を意味してきたという、この国の文化における暗黒の(笑)歴史があるからである。
だから明治以来、ぼくのように「あの人は語学がすごく出来る」という風聞を立てられたとしても、言われた本人はそれほど悪い気はせず、だからあえて否定しなかったのだろうと思う。だってそれは「教養がある」と言われているのとほとんど同じことだからね。逆に、影響力のある本を母語で書く能力のある著述家たちに関して、「あの人は実は〇〇語がほとんど読めないんだよ」などという「スキャンダル」が立ったりすると(吉本隆明さんがそうだったように)、一般読者はともかく、研究者仲間たちは「なんだ、それなら自分たちの方が上だ」と胸をなで下ろすことができたのである。おまえら、そんなことで安心してる場合かよ!と思うのだけどね。
ぼくは、自分の指導する学生たちが研究に必要な外国語を習得できるよう助けることには、もちろんやぶさかではない。けれども、いわゆる「語学」能力——その内実がテキストの正確な読解力や訳出能力であれ、あるいは「正しい」(つまり北米圏の白人中産階級の習慣に従った)英語の発話能力であれ——にあまりにこだわりすぎ、それを研究能力や知的能力と同一であるかのように語る人たちには、植民地根性の亡霊しか見ることができないのである。そうした人々にかぎって「語学はたんに研究の手段」などと言いたがるのだが、実はそれは心理的な防衛にすぎないのであって、外国語がたんなる「手段」などということはありえない。
そもそも英語を話すということは(たとえ一行も読んだことなくても)ミルトンやシェイクスピアと共に語ることを意味するのである。ある言語を理解するということは、その言語を成立させている歴史的世界を共有するということなのだ。だがもちろんそれは、英語の母語話者と同じ世界に参入するということを意味するわけではない(というか、そんなことはできない)。非母語話者が英語を話すということが意味するのは、根底的には、「もうひとつの英語の世界を創る」ということである。実はこれが核心的に重要なことであり、それは英語の世界を広げてあげるということでもある。(英語の、母語話者による世界はあまりに狭く限定されているからである。)
母語話者(汚い言葉だが「ネイティヴ」)の英語にできるだけ近づこう、などという目標は、空しい。英語習得をめぐるそうした通念こそが、植民地主義の心性なのである。あなたの英語が日本語的アクセントのある英語だとしても、堂々と話せばいい。世界のほとんどはそうしている(ということはこれが「グローバル・スタンダード」というものである!(笑))。ただそれだけのことである。そしてそれは英語にとって(あるいは他のどんな外国語にとっても)、究極的にはポジティヴなことなのだから。